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だんだん自分になる #17

小さい頃は、「賢くて、優しくて、美しい女の子」的なものになりたかった。その漠然とした理想のイメージは、灰谷健次郎の「少女の器」の「紡」(つむぎ)だろうか(私も記憶が定かでないし、読んだことがある人がいるだろうか・・)。”両親は離婚したが、未だに恋愛関係のもめごとが絶えない母親に対して、大人顔負けの鋭い批評を口にする紡は、その裏に繊細な心と感受性を秘めている”、という設定なのだが、その”大人びた賢さ”と人の痛みを繊細に感じ取れる感受性と優しさに憧れた。そして、私の中の彼女のイメージは、髪が長くてサラサラで美しい。

しかし私の現実はといえば、家庭環境を恨みまくった結果の、大変屈折してドロドロしたものを中高大と抱え続け、現実と理想のギャップに苦しみ、自分との折り合いが全くついておらず、そういう気高い理想・紡イメージからかけ離れていた(私にとり大学卒業までは、黒歴史である)。

そういうものの呪縛から、20代半ば以降徐々に抜け出すことができて、加速度的に脱出できたのは、会社を辞めると決めたころだと思う。上記の私の理想イメージには、もう1つ、「バリバリに資本主義社会で活躍する」というものがあったのだが、コグマのじいさんのロンドン赴任が決まって、自分のキャリアをどうするかの決定を迫られた時、ビジネスウーマンとしてそこそこ成功することは全く自分の望むものでないと、つきが落ちたように、手放す覚悟ができた。「家庭環境を子供は選べないが、その環境が人生の多くのものを決定していて、世界は非常に不条理だ」と激しく憤っていた10代の頃の怒りを昇華して、あの頃の私なんかよりもっと不利益な状況にいる子供たちのために仕事ができたら、本望だと思った。

物語の主人公のような賢さや優しさや美しさがなくても、それはそれでいいではないかと、私なりの良さがあるとも段々思えるようになった。ある種の諦めである。それに、物語はこんな素晴らしい人ばかりで構成されていないのである。でも、みんなそれぞれに役割があって、大切だ。

だんだん自分になる、言い換えると、自分の輪郭がかなり見えてきたという感覚だろうか。

自分の奇妙さや偏屈さをも愛つつ、今日も特に何も進歩しないかもしれないけれどそれも受け入れつつ、ロンドンの片隅で、もう二度とない1日を大切に過ごそうかと思う。(こちらも奇妙な生き物である)コグマのじいさんと。

写真は、コグマのじいさんとこの夏に車で旅行したアイルランドの羊たち。近づいていったらいっせいに逃げられた。

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