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週報20240429-0505

この週報はアーティスト井口真理子が、福岡県宗像市大島という離島を舞台に、「一日も無駄にせず、慈しんで生きる」というモットーのもと暮らす、その記録である。
毎週末に、先週号を振り返りつつ、当週号を書き綴る形式のため、配信は1週間ずらしている。
マガジンのサブタイトル「心技体」は、今年の書初であり、その1年における自分との約束である。

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4月第5週-5月第1週、朝型生活は継続中だが臨機応変モードに切り替え。作業が夜に及ぶこともあり、起床時間は乱れ気味。GW明けには平常運転に軌道修正していきたい。

本週報も4月から連載を始めて1ヶ月が経過した。
今週号では主に、駆け抜けた1ヶ月と、その成果と反省について綴りたい。

結論として、「一日も無駄にせず、慈しんで生きる」というモットーを達成できたと1ヶ月であったと評価できる。毎朝毎晩の神棚への祈願のたびに、その日の手応えを感じ、感謝を重ねる密度の高い日々だった。

一方で、中庸度に関して言えば、まだまだ高くない。
なぜなら、現にこの原稿を執筆している現在、両手を負傷して、一気にポテンシャルが急降下しているからだ。
その原因は、「がんばりすぎ」による。
中庸のポイントは、「がんばらない」ことだ。
がんばるんだけど、がんばらないみたいな。絶妙なバランス。

自分の場合、やりたいことや、やることリストが膨大で、好奇心旺盛。
チャンス全てを生かすべく、決壊ギリギリまで奮闘してしまう傾向がある。
その結果、手を負傷し、急停車。
機能不全に陥り、もどかしく、歯がゆい思いで回復を待っているところだ。

心身のメンテナンスには気をつけているものの、やはり無意識下において、直接的な言語をもたない身体から発せられる疲弊や不満(「ヤスマセロ〜!」という訴え)を悪気なく無視してしまったのだろう。いかんなぁ……。
まだまだ修行が足らん証左である。

身体はあらゆる不調という形でストライキを起こす。
今回、私はこの1ヶ月間で、開墾や畑仕事という慣れない運動をしたり、個展に向けた制作に励むあまり、手を酷使した。その結果、手を負傷し、体調を崩し、アタマが判断した許容量と、実際のカラダの許容量のギャップが露呈する結果となった。

今年のテーマであり、書初にしたためた「心技体」は、まさに「心身のバランスをとってこそベストパフォーマンスを発揮できる」という意味を込め、そのための研鑽を自分と約束したものだ。
だからこそ、夜型から朝型に生活習慣を切り替えたり、定期的な運動をしたり、読経や畑作りなどで英気を養ったりしてきたわけである。

しかしここに来て、「心・技・体」のうち、「技」すなわち行動が暴走してしまったようだ。行動過多による、身体不調、そこから連鎖して精神不調につながってしまった。

芸術家である私にとって、手はなによりも大切なもの。
以前、とある人に、「手を失っても絵を描き続けるだろう?」と訊かれ、その時は「もちろんです」と答えたけれど、果たしてどうだろう。
目と同様、何よりも大切な創作のパートナーを失ったら、そのあまりの衝撃と悲しみによって絶望し、生きる意味さえ失いかねないな、と今では思う。
それくらい、手は、自分にとって、かけがえのない宝である。
手には、私の生涯をかけて独自に発達した神経が行き渡り、脳が思考するより先に、独自に創作回路を駆け巡り、「勝手に動いてしまう/描いてしまう」という現象が起こるまでに達している。
そうした現象を、「手に任せる」と個人的には呼んでいるのだが、絵は脳が描くというよりも、手が描く、というような感覚がある。
そう、手は、もうひとつの脳なのである。

アタマ、ココロ、カラダ。
ココロは、中立の立場にあり、アタマとカラダの翻訳者である。
今回は、アタマはがんばりすぎてるとは感じておらず、むしろまだまだこれから、という位スピードを出していた。けれど、カラダが「ちょっとスローダウンしておくれぇな」、ということでブレーキをかけてきた。
今回ココロは、その度合いを両者に翻訳することに失敗し、どちらかというとアタマの方に加担していたわけで。
ココロが常に中立でなければ、アタマもカラダも走行を保てないのだ。

前回登場した職人の格言に「力は抜いて手は抜くな」がある。
そう、何事も力んでは及ばず。されど手は動かすべし。この繰り返しだな。うむ。

GW中とあって、大島には多くの観光客が来島していた様子がなんとなく感じられる。
なんとなく、というのは、私は人混みが苦手なのでこういう行楽シーズンなどは出不精だから、自宅から遠巻きに姿を見かけたり話し声を耳にしたりしたのだった。
今回は制作/仕事もあったので、休むつもりも毛頭なく、本来は引きこもりでちょうどよかったのだが、体調不良になったので、どのみち休まざるを得なくなった次第だ。
とはいえ、時々は散歩に出かけると、海沿いには鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いでいた。子どもの頃はこういう立派な鯉のぼりを街で見かけては、空を池に見立てて空想に耽ったものだ。

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さて。冒頭で、「がんばりすぎた」と述べた。
中庸とは、「がんばらない」、そしてその方がかえって安定した成果が出せる、というものだと個人的には定義づけている。

中庸にせよ、心技体にせよ、肝要なのはバランスだ。そのバランス感覚が成熟することは、プロフェッショナルを研磨することに比例する。
自分自身とよく対話し、よく理解し、よく行動すること。これがバランスの基礎となる。今後も、自己研鑽はつづく。

手ぇ、堪忍な。はよぅよぉなってや。今後は気ぃつけます。

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