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埼玉県立近代美術館「アーティストプロジェクト#2.05 スクリプカリウ落合安奈:Blessing beyond the borders- 越境する祝福 -」レポート マリコム

新型コロナウイルス感染症拡大防止のための緊急事態宣言が発令されるたび、休館措置を取る美術館が散見される。前回の記事では1度目の発令(2020年4月7日〜5月25日)に伴い休館した美術館を取材したが、今回も2度目の発令(2021年1月8日〜3月21日)に伴い休館した美術館の、会期途中で終了した展覧会について詳述する。埼玉県立近代美術館の「アーティストプロジェクト#2.05 スクリプカリウ落合安奈:Blessing beyond the borders- 越境する祝福 -」である。本展は2020年10月24日から2021年2月7日までを会期予定としていたが、同館の臨時休館措置のため一般公開は2020年12月23日に終了となった。

0.はじめに

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約束の時間に関係者専用出入口から館内へ入ると、人気のない回廊の先にあるコレクション展示室に通され、スクリプカリウ落合安奈(以下落合)本人と担当の五味良子学芸員とが出迎えてくれた。
筆者は通された場所が展示室であることに早速驚いていた。というのも、当企画の埼玉県立近代美術館の学芸員が現在活躍中のアーティストを紹介する「アーティストプロジェクト」シリーズは、これまで展示室内に展示されていなかったからだ。これまでと同様、今回も館内の回廊や小スペースに作品が点在してはいるものの、主会場はコレクション展示室と言って良い作品配置である。
埼玉県立近代美術館は、著名な西洋近代絵画の数々や、通称・浦和画家(1923年の関東大震災で被災者が移住したことにより形成された浦和付近のアトリエ村に集住した画家たち)の作品などをコレクションしている。こうしたコレクション群と落合作品とを関連させる、これまでの「アーティストプロジェクト」には見られなかった新しい展開が、今回の落合展にはあるのだろうか?と一瞬考えたのだった。
結論から言えばこれは早とちりであった。会場が展示室となったことに関し、五味学芸員は「これまで発表されてきた落合の作品の場合、オープンスペース的な環境よりは、周囲から区切られた空間の方が相性がよく、鑑賞者がより集中して作品に向き合えると考えた」と言う。「すぐそこにピカソがある展示機会なんて、もう二度と無いかもしれないと思った」と落合は笑っていた。しかし通常開館中にコレクション展とあわせて見れば、例えばそんな物事同士のあいだに見出されてきた自明の距離のようなものにも落合作品は作用しようとしているのだと、筆者は捉えただろう。そんな本展の様子を以下に記していく。

1.《Blessing beyond the borders》

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ハンドアウトに記載された作品番号順に記述することにしよう。まずは展示室入口正面の可動壁のむこうに覗く、インスタレーション作品《Blessing beyond the borders》についてだ。本展「越境する祝福」の名付けのもととなった作品である。
薄暗い空間のなか、モノクロームの写真がプリントされたシアーな生地が螺旋状に吊るされている。鑑賞者が生地のあいだをぐるぐると旋回しながら中心に向かって進んでいく仕組みだ。写真は日本とルーマニアの各地における祭りや風習を捉えたものであるらしいが、それと分かるように写されているわけではない。フレームアウトしたり過度に接写されたりした被写体たちは、全体像を提示しない代わりに、曖昧な躍動感や臨場感を醸しだす。ぼんやりとした記憶のようなものにも近しい。

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この穏やかな混乱は、音響によっても増幅させられている。音源は、2国の各地で採取された祭りや風習にまつわる音が大部分を構成しているとのことだ。複数の音源がミックスされた音は、リバーブがかかったような篭った音質を伴い、鑑賞者を包みこむ。時折、木魚を叩くような「ポーン……」という音が響き渡る。霊的な体験に誘い込もうとするような、篭った音質と不定形なリズム。

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螺旋の中心へ進むと、アンバーを帯びた裸電球が吊るされている。電球は、約10秒の間隔で緩やかに明滅を繰り返していた。明るく光れば生地にプリントされたイメージが浮かび上がり、暗くなれば影とともにイメージも闇に沈みこむ。落合に尋ねたところ、明滅は呼吸や鼓動を意識したとのことだった。しかし約10秒間隔の呼吸や鼓動は、人体にとってリアルではない。遅すぎるのである。混濁したイメージと音、そして遅すぎる明滅によって、筆者は停滞し、長時間ぬるま湯に浸かっているような無防備な感覚を得ていた。あるいは通常開館中は、本作を体験しようとした子どもが号泣したこともあったと五味学芸員は語る。怪しい暗がりに、オバケの存在を予感したのだろうか。確かにここでは正体不明のオバケが周遊していて、それに誘われるように筆者もゆらゆらと順路を進んでいるだけのような気もする。

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中心部にある裸電球までたどり着くと、また螺旋を進んで本作品の外へと向かう進路になっている。螺旋状に吊るされた生地は二重になっており、生地を隔てて往路と復路が隣り合わせになっているから、入口から出口へはぐるぐるした一本道だ。来た道を行って戻ってくるのではなく、蛇行しながら突き抜けるのである。

2.《骨を、うめるーone’s final home》

《骨を、うめるーone’s final home》は、複数の要素から成るインスタレーションである。

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1の螺旋を抜けた先には、アクリルパイプで自作された小型の渾天儀が天井付近の高い位置に吊るされ、ゆっくりと回転していた。渾天儀とは、地球の周囲を取り巻く恒星や惑星の動きを示したもので、古くから天体の位置や運行を観測するのに用いられてきた球体の機器である。この渾天儀には照明が当たっているため、足元には回転の影が大きく映し出されている。こうした回転や、螺旋状の進路に関して、落合は「自分の位置や距離を混乱させたかった」と語っていた。この立体自体も、どの作品に属しているかが不明瞭な位置に展示されている。1から2へと、緩やかに鑑賞者の足取りを繋ぐ役割を果たしているだろう。

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写真作品は、海を写したモノクロームの写真だ。海のむこうには陸が見える。どうやら一人の人物が陸へ向かって海を泳ぐ場面が写されているようだ。海と陸のスケールに対して、人一人はあまりにも小さく、孤独で、心もとない。
ハンドアウトによれば、このインスタレーション作品は、江戸時代に没したある一人の日本人男性をモチーフとしている。男はベトナムにフィアンセがいたが、当時の日本の鎖国政策によりその仲を引き裂かれ、再びベトナムへ向かおうとするところで息絶えてしまったという。しかしどういうわけか、落合が2019年にベトナムで見つけた彼の墓は、日本の方角である北東10度を向いていた(落合のこの旅の様子は、日本語と英語の字幕だけの映像として壁に投影されている)。

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写真作品に写された人物は、愛するフィアンセのもとへと急ぐ男を思わせるだろうか。もしくは、渡航中に祖国へ思いを馳せる男の姿を想像させるだろうか(自ら故郷を去った彼が故郷を思うことは、矛盾しているだろうか)。墓は、誰によって、なぜ北東10度に向けられたのか。フィアンセを追った男の生き方は一聞するとロマンチックであるが、国家の外交政策と個人の物語が衝突した結果として生じたスペクタクルは本当にロマンチックだろうか。

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奥に配置されたもう一つの映像作品からは、波の音が聞こえる。やや荒々しい海の波を捉えた映像が、吊るされたカーテンの全面に映し出されている。カーテンは薄手の生地で見るからに軽く、壁際から吹き出される風によってかすかに揺れていた。映像が映写される支持体としては、この薄生地のカーテンは頼りない。大きなスケールで波の映像を眺めることができる割には、海の迫力よりも、海の迫力を捉えようとする主体の繊細さや曖昧さのようなものが目立つように思われる。

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映像の手前には古びた木製の椅子が置かれていた。映像の内容や音響に比べると、誰も座っていない古椅子は、動かず静かである。この孤独な古椅子の佇まいを上記のエピソードと照らし合わるのであれば、男が座って海を眺めていたであろうかつての痕跡や、日本の方角を向いた彼の墓を彷彿させる。 

3.《Double horizon》

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展示室を出たところの回廊では、3つ目の作品《Double horizon》が配置されていた。落合が長崎でおこなった国際結婚の歴史調査に基づく新作映像である。上述のベトナムへ渡航した日本人男性の出身地が長崎であり、さらに彼の生きた鎖国時代に唯一他国との通商が許可されていたのが長崎の出島であった。

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映しだされた海は、一部、ベトナムと長崎の海のダブルイメージになっている(海の映像の上に、海の映像が重ねられている)。もちろん、どちらがベトナムの海でどちらが長崎の海かなど、一見して判別がつくはずもない(海洋研究者であれば波の強さなどから推測できるのだろうか?)。1の《Blessing beyond the borders》と同様、複数のイメージが重なりながら、それぞれがどの場所のイメージを指しているかの明言は意図的に避けられている。どうも落合の作品に言われる「beyond the borders(越境する、国境を越える)」とは、誰かが既存の境界線を跨ごうとする明確な主体的行為であると言うよりは、むしろ物事の輪郭が揺らぎ溶解していく現象や、そこに巻き込まれるように存在する主体の主体らしからぬ曖昧でゆらゆらした様なのではないかという気がしてくる。

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映像中には長崎県平戸市で撮影された「じゃがたら娘像」や、平戸市生月町博物館で撮影された捕鯨に関するジオラマなどが捉えられていた。「じゃがたら娘像」は1965年に建立された像だが、そのルーツは17世紀の鎖国令に遡る。当時オランダ人・イギリス人との間に子を成した日本人女性が、子と共にジャカルタ(当時の名称はジャガタラ)へ追放された歴史を偲び建立された。国際結婚というキーワードに導かれて撮影されたというわけだ。また生月町博物館に捕鯨のジオラマがあるのは、かつて生月町が捕鯨で栄えた土地であるためであるが、他方ベトナムにはクジラ信仰があるのでクジラに相関を見出したのだと落合は言う。ある面においては人と人とを隔てるものとして現前する海が、また別の面ではその人の生活を支えたり信仰の対象にもなったりする。

4.《The backside over there》

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そんな海の多面性を示すかのような作品が、4の《The backside over there》である。壁状に自立したこの作品には、海の写真が貼りこまれている。大地を「つなぐ」役割を持った海が、同時に空間を「阻む」様子が端的に表されているのだ。

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ところで壁に近づいて海の写真を見ると、どうにも解像度が粗い。しかしこの壁の前に立ち、スマホで第三者に写真撮影してもらうと、あたかも自分が海の前にいるかのような光景に写る(上の写真では壁の前に落合に立ってもらった)。鑑賞者に撮影してもらうことを念頭に置いた作品なのだと落合は言う。なるほど、道理でこの作品は、美術館1階のエレベーターホール手前に設置されているのだった。ちょうど2階で企画展を見てきた来館者がエレベーターで1階に降りてくると、扉が開いた瞬間にこの壁と出くわすように配置されている。付近には人々が実際に海を眺めている場面を撮影した写真作品が並べられており、壁の前で自身が撮影した写真と重ね合わせれば、同じ海の前にいるかの如くイメージすることができる。

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ハンドアウトによれば、この作品はサイズ可変で、2015年から世界各地の海辺で展開しているシリーズ作品である。落合の捉える海のあり様を端的に示し、ポータビリティに優れ、親しみやすい鑑賞体験を生むこの作品は、本展で展示された作品の中でもアイコニックな存在であると言えるだろう。

5.おわりに

本記事では、休館に伴う展示期間短縮のために本展を目撃することがかなわなかった複数の鑑賞者を想定した上で、展示作品の紹介のみならず、一人の鑑賞者としての鑑賞体験を含めて記述した。但し冒頭に記した通り、通常開館中にコレクション展と併せて鑑賞することで、新たな体験が生まれた可能性もある。すべての可能性をここに網羅することはできないが、少なくとも落合本人によるテーマ解説や、作品づくりにおける姿勢、今後の展望などは、埼玉県立近代美術館HPに掲載されたインタビューに収録されているので、そちらも併せて是非ご確認されたい。


レビューとレポート第25号(2021年6月)
撮影:平間貴大

※本取材はマスク着用、また手指の消毒の上で行われた。さらに訪問前後には検温を実施し異常が見られなかったことや、訪問日から今も発熱等の症状が見られないことを記しておく。

マリコム
1983年生まれ。俳優。13年間の演劇活動の後、表現全般の鑑賞者となる。ゲンロン新芸術校第5期CL課程では展覧会のキュレーションと批評を実践。現在は湘南およびVR空間を拠点とするSF集団ポストパッションフルーツにてスペース管理人を務めている。職業はミュージアムアーカイブ周辺。

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