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小杉放菴記念日光美術館「『描く』を超える―現代絵画 制作のひみつ―」

美術館や博物館で催される「常設展」や「コレクション展」の多くにおいては、常設と言っても常に同じ作品や資料が展示されているわけではない。物質的な劣化をなるべく食い止めるべく、光や外気に触れづらい収蔵庫で休ませたり、修復やメンテナンスをしたりする期間が必要だと考えられているためだ。あるいは、他館での展示のために、作品が貸し出されることもある。そういうわけで常設展やコレクション展にも「展示替え」が存在するのであり、展示作品の変更に伴いキュレーションや配置場所も変化することが多い。

新型コロナウィルス感染症COVID-19流行の影響により、今春はさまざまな施設が休館していたわけであるが、中止・休止・延期した展覧会は、もちろんニュースで大きく取り上げられるような大規模企画展に限らない。その時その場限りの常設展やコレクション展の数々もまた開催機会が失われた。今回は、そうした「陽の目を見なかった幻の小規模コレクション展」を取り上げたいと思う。

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取材先である小杉放菴記念日光美術館は、栃木県のJR日光駅および東武日光駅からバスで5~10分のところにある。私は北千住駅から特急列車「リバティけごん」に乗って赴いたが、このときは新型コロナウイルスの影響で特急列車が間引かれ、また東武日光駅からのバスも運休しているようだった。東武日光駅前は、観光地らしく整った街並みが異様な沈黙に包まれていた。土産屋のシャッターが降りている。人はいない。


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休館中の小杉放菴記念日光美術館へは、予め、みそにこみおでん氏から連絡をとってもらっていた。取材したい旨を申し出ると快諾してくださり、当日も担当学芸員の清水友美氏が展示室を案内してくださると言う。

展示作品の多くが接写NGである点はお許しいただきたいが、まずは展示室の入口に掲げられた展覧会のイメージパネルをご覧いただこう。下の写真である。会期は2020年4月11日(土)から5月31日(日)までが予定されていたが、休館措置に伴い展覧会も開催中止となったため、このパネルも公開されることはなかった。

清水学芸員がパチパチと館内の電気をつけるまで、私はほの暗さの中でパネルを見ていた。室温はひんやりと調整されている。


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展覧会「『描く』を超える―現代絵画 制作のひみつ―」は、展示作品それぞれの技法に注目したものである。現代美術作品に対して「わからない」と反応する来館者に配慮し、技法の解説を試みる展示内容にしたのだと清水氏は言う。

「わからない」という声が聞かれるのは、観光客が多い土地柄も影響してのことでもあるだろう。来館者が美術館で作品を見るためにではなく、旅行や観光のために日光を訪れているのであれば、ふだんは美術に親しみのない者も多そうだ。小杉放菴記念日光美術館は、日光市の「ふるさと創生事業」の一環で構想・設置されているから、美術館の取り組みに日光の土地柄が影響してくるのも当然のことだと思われる。コレクションの傾向も、画家・小杉放菴をはじめとする日光や栃木出身の作家の作品や、日光の自然を彷彿させる風景画などが中心となっているとのことだ。


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第一展示室には、小杉放菴のスケッチや日本画などが並んでいた。ここは都度開催される展覧会にちなんだ放菴作品を展示するスペースなのだという。今回は展覧会「『描く』を超える―現代絵画 制作のひみつ―」にちなんで、「放菴の日本画 制作のひみつ」と題された小展示が準備されていた。


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小杉放菴記念日光美術館の整備構想は、1992年、放菴の長男でありまた東洋美術研究家でもある故・小杉一雄氏から放菴作品1459点の寄贈を受けたことで後押しされたという経緯がある。現在のコレクションの大部分はこのとき寄贈された放菴作品で占められているわけであるが、その多くは「寫生画(しゃせいが)」――つまりスケッチだ。この第一展示室内に点在しているのも、放菴が「想像の材料」と呼んだ寫生画と、寫生画の写実性が垣間見えるような日本画である。


画像5(油彩画《泉》。東京大学(当時の呼称は東京帝国大学)の安田講堂の舞台正面に描かれた壁画の習作。小杉放菴記念日光美術館の壁面に埋め込まれた、館のシンボル的な作品である)

1881年(明治14年)に生まれた小杉放菴は、明治維新の影響下から二度の世界大戦を経て1964年(昭和39年)に没している。彼は画家としてのキャリアを洋画からスタートするが、記者として従軍した日露戦争の様子を新聞や雑誌に漫画で投稿したり、フランス留学ののちには日本画も手がけたりするようになった。当時の日本の混乱を表したようなキャリアのヴァリエーションであるが、こうした多彩さが放菴の「制作のひみつ」を握っているのであろう。洋画的な写実性を備えた日本画も、上の写真――油彩画《泉》もそうである。《泉》には、放菴が憧れていたピエール・ピュヴィス・ド・シャヴァンヌの影響が作風に色濃く見られたり、また植物の描写に特に写実性が伴っていたりする一方で、人物には日本の天平文化の描写が見られる。


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第2展示室へ進むと、展覧会「『描く』を超える―現代絵画 制作のひみつ―」の始まりである。「線を引く」「空間を刻む」「重ねる」「たらす」「待つ」の5つのセクションによって、会場は構成されている。

なお、今回の展示作品は、2005年に同館で開催された展覧会「画家がいる『場所』」をきっかけに寄贈された作品が多数を占める。当時のゲストキュレーターであった東京文化財研究所の田中淳氏は、同年に出版した著作『画家がいる「場所」―近代日本美術の基層から』の中で、黒田清輝や萬鐵五郎といった近代の画家たちにまつわる「場所」に注目していたから、展覧会も「場所」を補助線とした内容であったという。

片や、今回の「『描く』を超える―現代絵画 制作のひみつ―」展は、放菴の制作経緯を前置きした上で、現代美術作品の制作経緯に焦点を当てている。近代の作家を特定の角度から紹介し、類似の角度でもって現代の作品を捉えなおそうという点では、2つの展示は同様の試みをしていると言えるかもしれない。


画像7(菊地武彦《線の気韻1993-9》1993年)

画像8(二木直巳《見晴らし台1402》2014年)

画像9(二木直巳《見晴らし台のためのスケッチ》《見晴らし台のためのプラン》)

第一セクションの「線を引く」では、菊地武彦(1960年~)と二木直巳(1953年~)が紹介されている。

パッと目を引く大型の半円が描かれた作品は、栃木県生まれの菊地のものだ。この《線の気韻1993-9》には、水彩絵具のほかに日本画に用いられる岩絵具も使われているから、「洋画」「日本画」といった枠組みを超える点では放菴に通じるところもあるだろう。それにしても「線」と呼ぶにはダイナミックすぎる筆致に思われる上に、あちこちに染みや引っ掻きなどの痕跡も見られる。菊地は20代の終わりに「何を描くか」に悩んだ末、紙に線を引くことに辿り着いたそうだ。「線」という言葉の持つ静的な響きを覆す躍動的なイメージが、菊地には見えているのかもしれない。

あるいは菊地とは対照的と思われるほどの緻密な「線」を描いているのが二木である。二木は彫刻から平面へと転向した作家だ。精緻なプランやスケッチに基づいて制作されているのは、都市計画や出版など、二木に幅広いキャリアがあることが影響してのことだろうか。異質な分野の特性を生かしたスケッチに基づく点は、放菴が寫生画を描くことで洋画の写実性を日本画に反映させたことを彷彿させる。クリーム色のワトソン紙に、鉛筆と色鉛筆で線が描き込まれた《見晴らし台》シリーズは、一部に直線のみならずフリーハンドで描かれた揺れをも確認することができる。


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第二セクションの「空間を刻む」では、日光生まれの入江観(1935年~)の作品が展示されており、入江ブルーとでも呼びたくなるような青空が印象的だ。

入江は、20代後半まではセザンヌの影響を受け筆触分割を多用していたが、フランス留学ののちにフランスと日本の風景の違いに悩み、思うように描けなくなる時期があったという。展示室では、そうした苦心を境に入江がどのように変化したかが順を追って確認できるようになっているのだが、最も顕著に変化が見られるのが空の部分である。入江が家庭を持ち、日常的な情景にモチーフを得るようになると、キャンバスの大部分を占めている青空に筆触分割の影響が薄らいでいく。放菴は渡仏後にシャヴァンヌの影響が見られる作品を残しているが、入江はむしろセザンヌの影響から脱し、滑らかなマチエールを獲得していくというわけだ。

それでもなお、入江は調子が良ければ「空がデコボコに見える」と発言しているという。茅ヶ崎に住むようになってから描かれるようになったという風景画の空は、雲に光が乱反射したような複雑な色彩の塗りが重ねられており、それは筆触分割とも滑らかなマチエールともまた違った表情を持っている。後期には故郷の日光を描いた風景画もあった。


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第3セクションの「重ねる」では、佐川晃司(1955年~)の油彩画《背にとどまるもの04.8-1》およびそのドローイングが展示されている。

「重ねる」とは油彩画の全般に言えることであるから、なぜ佐川の絵だけがこのセクションに該当するのかに注目したい。絵具の厚みがあるタイプの絵ではないにもかかわらず、端に塗り残された白が不均一に塗られた深緑を際立たせ、こんもりとした茂みのような立体的なマッスを予感させる。聞けば佐川はもの派の代表的な作家・榎倉康二の教え子であるというから、こうした物質的な重量感にはその影響が見られるのかもしれない。ちなみに《背にとどまるもの04.8-1》には佐川のアトリエ周辺の田園風景が描かれているようだ。

それから、この大型作品は展示位置も妙である。ちょうど可動壁の境目に架けられ、照明が当たるスペースからも外されているのだ。あえて影を増す不自然な位置を陣取ることによって、塊のような緑色が浮いて見えている可能性もある。ここで言う「重ねる」とは、絵具を重ねることと言うよりは、何らかの認識をもたらす複数の要素の組み合わせであるとでも言えようか。


画像13(間島秀徳《Kinesis No.407(Bakufu Un)》2009 年)

画像14(中村功《Surface/Figaro 意勢IV-30》2005年)

第4セクションの「たらす」では、間島秀徳(1960年~)と中村功(1948年~)が紹介されている。

間島が近年手がけている《Kinesis》シリーズには、水が用いられているという。アクリル絵具で塗りつぶされた紙に水を撒き、そこに筆に含ませた岩絵具や河原の砂などを垂らしたら、画面を傾け内容物の軌跡を描く、といった工程だ。青いアクリル絵具の下地の上に白い顔料の流動の痕跡が見て取れる《Kinesis No.407(Bakufu Un)》は、砂浜や雪山といった自然の光景にも近づく。あるいは国境や世代を問わず、あらゆる人々の感情を呼び起こしたいと願う間島の作品の制作工程は、どこか料理や工作にも似た日常的な親しみを感じさせる。「わからない」来館者に向けられたこの展覧会において、技法を解説された時に最も「わかる」実感が伴うのは、恐らく間島の作品ではないだろうか。

一方、中村は絵画を「人工物」と捉える。車のボディーのような光沢を備えた《Surface/Figaro 意勢IV-30》は、手つき鍋のような道具から筆やスプーンで絵具を掬い、それを垂らすことによって出来ている。液体の筋が上から下へとだらだら垂れたまま定着している様は、光沢を帯びることによって今もまだ乾いていないかのような錯覚を見せる。こうした物質の生々しさは、赤・緑・紫・黄色といった奇抜なネオンを思わせる色彩の混濁によって、工業製品にも似た質感を伴うのである。


画像15(山田昌宏《ティリニ》2006年)

最後の第5セクション「待つ」では、山田昌宏(1960〜)の《ティリニ》のみが展示されている。

制作の恣意性に疑問を抱いた山田は、38歳頃に筆を使って描くことを放棄したのだという。カンヴァスをゆるく張った木枠を寝かせ、噴霧器で絵具を吹き付けると、布がたるんだ部分に絵具がたまり、乾くとそこに円形の染みができる。こうして出来上がったのが《ティリニ》である。湿度や温度によってカンヴァスの弛みや縮みが変化するために、どのような作品が出来上がるかは山田自身も予想がつかない。幾つもの不確定要素が偶然的に絵を決定していくあいだ、山田はそばで変化を確認しながらその決定を待っているというわけだ。このセクションでは、こうした「待つ」時間をも画家の行為として数えている。

ところで、セクションは「線を引く」「空間を刻む」「重ねる」「たらす」と来て、最後に唯一受動性を帯びる「待つ」が構えているのが興味深い。というのも、山田の「待つ」は、「線を引く」「空間を刻む」「重ねる」「たらす」といった制作の恣意性を批判するものだからである。とはいえ、山田も完全にただ待っているわけではなく、木枠にカンヴァスを張ったり、噴霧器で絵具を吹き付けたりはしているのであり、それは「待つ」ための装置を恣意的に制作しているとも言うことができるだろう。他の各セクションも、例えば「線を引く」とは何事かではなく、「線を引く」ためにその作家が何をしたか、「空間を刻む」ために何が必要だったか…と遡って個々のケースを想像してみることで「制作のひみつ」により近づけることもあるのかもわからない。


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帰路もまたタクシーに乗って東武日光駅まで戻ってきた。駅前は見事に無人で、山の頂には雲がかかっている。小杉放菴記念日光美術館は6月以降も7月17日までは空調設備工事のため休館が続く。次回開館日には無事に展覧会が開催されることを願うばかりだ。


レビューとレポート第13号(2020年6月)

※本取材はマスク着用、またこまめな手指の消毒の上で行われた。さらに訪問前後には検温を実施し異常が見られなかったことや、訪問日から3週間たった今も発熱等の症状が見られないことを念の為記しておく。


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