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【連載長編】エナメルの夏-六月(初夏)

 入部テストを終え、友人何人かとの帰り際、教科書を置き忘れたことに気づいた陽は一人教室に戻った。教室の横の廊下がいやに水浸しで不思議に思ったのを脳裏に、下駄箱場で新品の靴を履くのに苦労していると、後ろから「陽」と名前を呼ばれた。振り返るとそこには、阿須賀が頭からタオルを被り、野球のバットを片手に立っていた。一番上のロッカーに手を突っ込んで、靴を陽が座る隣に置く。
「陽ってどこに住んでんの」
 近づいてきた阿須賀の表情は、機嫌良くにこやかで、先ほどの様子とは大分違った印象だった。
「街の方。六国越えた先」
「そっか、町小だもんな。おれは山の方」
 スーパーの手前まで一緒だな、と言って、阿須賀は靴を履き始める。なぜ野球のバットを持っているのかと疑問に思った。ふと、横顔から水筋が伝うのを見て、彼の髪が濡れていることに気づく。
「汗がすごいね」
 陽が訊ねると、阿須賀の茶色の目が陽を見つめた。夕方の光に透けた瞳はあまりにも色が薄くて、吸い込まれるようにその瞳を見つめた。
「さっき誰かに水かけられた」
 阿須賀は眩しい瞳を細めた。陽は耳を疑う。
「水?」暖かくなってきたとはいえ六月である。「誰に」
「テニス部の先輩。名前はなんだったかな」
 木下先輩の顔がふと頭によぎった。
「なんでそんなことされたの?」
 陽が尋ねると、阿須賀の表情は興味を損ねた様子になり、「さぁ」と靴紐に手をかけた。彼は自分に向けられた敵意や好意にひどく疎いようだった。他人の感情に固執しないタイプなのだと思った。周りの誰にどう思われようと、周りの誰にその結果何をされようと、興味を持たない。そして、興味を持たないということを隠す気もない。他人の顔色ばかり気にして生きている自分とは全くことなる性質をもつ阿須賀に、陽はますます惹かれた。
「タオル貸そうか」
「ありがとう」
 ははは、と快活な声で笑う阿須賀。仕返しになどにも興味がなさそうだった。そんな様子が木下先輩の気にくわなかったのだろう、と腑に落ちた。同時に、テニス部の素行には安心できなくなった。このまま決めてしまって良いのだろうか。もうすぐ抜ける三年の先輩たちはまともに見えたが、直接的な関わりを持つ二年生の中には、そう見えない者がいたからだ。どうしてもテニス部が良いという理由がない陽は決めかねていた。
「部活、決めた?」
 陽が訊ねると、瑞海はイヤ、と言った。
「希望は水泳部だったけど、ないから迷ってる」
「水泳が得意なの?」
 阿須賀の肌が浅黒いのは水泳焼けなのだろうか、と思う。
「水に触れる感覚が好きなんだ」
 阿須賀はそう言ってほほ笑んだ。大きな眼球がぐるりと回って陽をとらえる。
「特に夏は美しいな」
 阿須賀から出る不思議な言葉に、凛と心を揺らされる。陽の頭に、「阿須賀は幽霊が見えている」という噂がよぎる。彼がナイキの真白の靴を履き終わるのを待って、二人は共に帰路についた。陽は、道端に咲く花の名前や、空に流れる雲の色などを想像する阿須賀の横で、彼の質問に「わからないよ」「どうだろうね」などと答えていると、阿須賀は「大切なのは想像力なんだ。大事なのは答えじゃなく、答えを探そうとするその過程なんだ」と言い、道脇の白い花を指さし「想像して。この花の名前は?」と言った。彼が同級生たちとは幾分変わっていて、その発言は難解で理解に苦しむが、音が綺麗で意味の深い印象があった。陽は彼の意味不明な発言の真相を知りたくて、彼に質問を投げる。
「阿須賀って、不思議だよね」陽の目先では阿須賀が夕陽に照らされている。「言葉の表現が独特だ」
 陽の言葉に、阿須賀はそうだろうか、と答える。そして急に阿須賀がくるりと背を反転し、間を切らずに陽に詰め寄った。突然の至近距離に陽は思わず息を飲む。視線が噛み合わないほど近くに阿須賀の向日葵の目があった。人形のように端正な顔が能面のように酷く不気味な印象に変わる。
「おれが怖い?」
 そして阿須賀は口を開く。向日葵が、陽の目玉を嘗め回すように見ている。その声には全く感情が感じられない。深緑の向日葵は近くで見ると奇怪で禍々しい色だった。幽霊が見えるだのなんだの、いっそその方がマシだろう。彼自体が得体の知れない物の怪ではないかと思うほどだった。これは、いったい、怒りなのだろうか。陽は逃げ出す勇気すらなく彼の目前に立ちすくんでしまった。汗がリアルに背中を伝い、身動きが取れない。
「べつに」
 陽が震える喉で声を絞り出すと、阿須賀はすいと顔を逸らしため息をついた。陽の半歩前を、ふらふらと歩きだす阿須賀は、もういつもの眩しい薄い色に戻っていた。陽は汗の冷えた背中を五月風が乾かすのを感じながら、夕陽に映る彼の背中を眺めた。いつも後ろから見つめている背中よりも華奢に感じられる。自分は、彼を怖いと思っている。けれどそれは、彼を理解できないが故の恐怖なのだ。彼自身に対する恐怖ではない。
「隠さなくていいよ」
 阿須賀が背中を向けたまま言う。陽はその横に小走りで着いて言って、声をかける。
「理解できないことは怖いに決まってるよ」
「おれにはみんなの方が難解だよ。もっと自由に生きられるのに」
 腑に落ちない答えだった。それは彼を宇宙人だと思っているからなのだろう。
「阿須賀の思う自由が、誰かの思う自由と同じとは限らないよ」
 陽の、思惑の不意を衝いて出た言葉だった。なぜ、この質問が口をついて出たのかわからなかったが、阿須賀の驚いた顔を見た時点で理由なんて忘れてしまった。ひと季節彼を見てきて、その表情を見たのは初めてだった。
 そのとき、後ろから大きな呼び声がした。
「瑞海!」
 クラスメイト達だった。阿須賀と同郷の友人達が三人ほど、バタバタと駆けてきて、その腕を引いた。
「約束を忘れたのか? 笹木先生の見舞いに行く日だぞ」
「女子が先に行ってるって」
 小学校の時の先生だろうか。阿須賀はそれを聞いて、あ、と声を上げた。
「お見舞い?」陽が訊ねる。
「うん、小学校の先生」
 そのうちの一人が短く答える。陽には関係ない、という様子だった。陽があまり話したことのないグループのメンバーだった。
「おれ、行かなきゃ」
 阿須賀が申し訳なさそうな顔をする。律儀なんだなと思った。陽は大丈夫、と言って、彼らに手を振った。じゃあ、また明日、といって長い一本道を走り去っていく後ろ姿を、ゆっくり歩きながら陽は眺めた。彼は、ああして友人といると普通だ、と思った。ただ、取り巻きの友人たちはどうだろう。阿須賀が奇行に走ると、彼らが気にかけるのは本人ではなくその周りで、小学校からの付き合いでそうすることが得策と知っているのだろうが、いつも仲の良い阿須賀の「発作」が収まるまで止めもせずじっと見守る彼らは陽には異様だった。彼らは踏み込まずに逃げているようにも、阿須賀を「飼っている」ようにも見え、そんな彼らを友人と呼ぶには少し違和感があった。彼らは、阿須賀を幼少から知っていて、彼が訳のわからない行動をし始めても大した動揺はしない。驚く級友たちを大丈夫、となだめる。それ以外の時はああやって接する。あの不思議な少年を、決して色目で見ない彼らは優秀だ、と思った。目の前を走る集団は、時折向き合って話をしながら、お互いを叩いて笑いながら、どんどん小さくなっていく。阿須賀は、友人たちと、一体どんな話をするのだろう。友人と集まって、あんな風に騒いだりするのだろうか。旧友にはもしかしたら好いた女子なんかもいて、その子と話をするのを楽しみにしていたりするんだろうか。そう思うと、阿須賀はとても普通に見えた。そして、そんな彼を支配している思想、制御できないほどの欲求を仕掛けるものが気になった。
 陽がそんな考えを巡らせている最中、夕焼けに染まる道の終わりに差し掛かった集団の中から、背の高い頭がひとり、急にこちらに向きを変えて走ってきた。阿須賀だった。彼の仲間たちが立ち止まってなにかを叫んでいる。聞こえないが、阿須賀を呼び止めているのだとわかった。陽は驚いた。だんだん近づいてくる阿須賀が、ムッとした表情をしていたからだ。陽になにかを伝えるために戻ってきたのだとわかった。
「陽!」
 思っていたよりもかなり速く、陽の目の前までたどり着いた阿須賀は、息せき切っている。
「なに?」
 余裕のない態度の阿須賀を見て、陽は動揺した。彼は、キラキラした瞳でまっすぐ陽を見つめ、納得いかないという表情を見せる。
「なんでおれを苗字で呼ぶの?」
「え?」
 思わず高い声が出た。行動の大きさに発言の内容が伴っていないのは明らかだ。
「お前はおれを名前で呼ぶべきだ」
「どういうこと……」
 そんな、呼び方ひとつ、引き返してまで言うことなのだろうか、と陽が思っていると阿須賀が顔を上げて言う。
「なんでそんなこと気にするのか疑問に思ってるだろ。めんどくさいやつめ」
 返答に困っていると、彼はそのキラキラした目を最大に見開いて、陽につめよる。真っ赤な日差しに照らされた彼の目が、いつも以上に薄く美しい。
「おれは自分の名前が好きなんだ」
 真剣な表情から出たそれは、とても新鮮な言葉だった。そしてこのことが、彼にとっては世話になった先生の見舞いの約束に間に合うことより大事で価値のあることなのだと気づく。彼が表現することを何より大事にしている芸術家気質であることを理解したのはこの時だった。陽が、わかった、と掠れた声で答えると、夕日に照らされた彼は、満足そうににっこりと笑って踵を返した。
 自分の名前が好きで、それを陽に呼んでほしい、という事実がとても重要に思えた。しかも、よくよくクラスメイトの呼び方を聞いていると、関係性に関わらず彼を瑞海と呼ぶのは何人かだけで、彼を阿須賀と呼ぶ級友を逐一問いただしたりもしなかった。あれは気まぐれだったのだろうか。確かに自分は、あの時の彼の切迫した煌めく思いを感じとったというのに。
 陽は六月の中旬まで決断を迷いながら、テニス部に入部した。瑞海が入部していたからだ。風の噂で高橋部長からの直々のオファーがあったと聞いた。陽やほかの一年生が入部するころには、瑞海は先輩たちと一緒にすでにコートに立っていた。実力に幾分差があったことで、陽が瑞海と同じコートに立つ機会は皆無だった。彼は、自分だけが他の一年と別メニューをやらされることに納得がいかない様子だったが、六月末の中体連には二年の先輩とペアを組んで大会に出られるまでになっていた。瑞海は不思議なほど完璧で、一度教えられたことをすぐに体現できた。スポーツにおいて瑞海は、センスの塊だった。しかし、一年生のコソ連中に、瑞海にコツを聞いた友人の一人が、「見たとおりだよ」と指導されているのを聞いて、彼が細かい技法について詳しくないことを陽は知った。部長が特に瑞海の能力を買っていて、とにかく早く良い選手を育てたかったのか、瑞海には誰よりも厳しく、誰よりも深く注力していた。それを気に入らない二年の先輩も多くいたのだろう、瑞海は少数の諸先輩方からあまり好かれていなかった。時に彼らは理不尽に瑞海に向かって怒鳴り散らすこともあった。瑞海と陽を含んだ一年生たちは、先輩たちに可愛がられもしたし、使い走りにされることもあったし、時に厳しく指導され、上手くいったときには褒められた。陽は、試合のあとに、集団に混ざらずにコートの真ん中でガットを弾きながらどこか一点を見つめている瑞海がいつも気になっていた。彼がコートの真ん中に座り考え込むのは、大抵何かが納得出来なかった時で、それは多くが彼自身の反省なのだろうと思っていた。教えをすぐに体現できる彼には、緻密なイメージトレーニングが必要だったのだろう。シミュレーションを終えるまでは大抵、二、三◯分を要した。

<続く>

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