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【連載長編】エナメルの夏 - 四月(春)

 中学の登校初日、桜の香る開放的な昇降口で、雪見《ゆきみ》陽は立ち尽くしていた。自分のネームを探し回って、ついに見つけたと思えば一番上。身長の低い彼は背伸びをしても届かなかったのだ。同級生たちがその横をどんどん通り過ぎていく中、同じ色のシューズを手に持った背の高い少年が、陽と同じ段の一番下を眺めていることに気づく。彼は陽に、靴箱を取り替えないかと訊ねた。彼の靴箱は陽と真逆で一番低い場所にあり、その長身では毎朝かがむのに苦労すると言う。どちらにとっても都合が良いと思う、という提案に、陽は頷づき、二人はその場でネームプレートを交換した。
「綺麗な名前だね」
 背の高い彼が陽の手元のネームプレートを読みあげる。
「雪を溶かす光、そういう意図がある名前?」
 名前に興味を持たれたことに少し高揚し、母方の祖父が名付けてくれたと説明する。すると彼は、風情のある人だね、と嬉しそうに微笑む。面白い視点を持つ人だと思った。
 それ以前に陽は、その少年の特徴的な容姿に釘付けになっていた。その髪と瞳は陽光を含んだ見たことのない美しい色だった。陽は初め、彼が黄色人種ではないと思ったが、茶髪が陽光に照らされて色が変わっていることにすぐに気づいた。表情は艶濃い気怠さを纏っており、濃い表情を醸す流し目は風流だった。物珍しい和風な濃さと西洋的な薄さを併せ持つ彼から陽は目をそらせない。風情のある顔の印象とは異なり、変声期を過ぎているのか、予想よりも低い声だった。彼の名前を知りたくなり、陽もその一番下の下駄箱に差すネームプレートを見る。
「当て字なんだ。読める?」
 陽の仕草に気づいた彼が訊ねてくる。小学校では習わない、画数の多い漢字が五つ並んでいて、苗字はおろか、名前も読むことができない。名前の最後の「海」という漢字から、彼が夏生まれなのではないかと想像する。高級工芸品のような字画の苗字に、みずみずしい海。陽が今まで見た人の氏名で、一番難解で複雑な文字列だった。それでいて青色の爽やかな夏の風景を想像できた。漢字がさほど得意ではなかった陽は、早々に首を横に振る。すると彼は、満足したように微笑んだ。
「阿須賀瑞海《あすかみずみ》っていうんだ、よろしく」
 その名前を聞いて、陽はハッとする。噂に疎い陽でさえ知っていた。彼は小さなこの町では有名人だった。起こした一番有名な出来事を、陽は目の前で見ていた。去年、町の小学校の合同運動会中に、カラーテープを全身に纏ってグラウンドを二周したのだ。フルボリュームで有名なアイドルグループのヒット曲がかかる中、二、三メートルの色とりどりのテープを身体中に巻き付けて、先生たちに追われながら、笑顔で走り続ける彼を、陽は別の小学校のテントの中で呆然と眺めた。陽はその姿を遠巻きに見ていたため、その時まで彼の容姿には気づかなかった。
 印象深い、珍しい響きの、爽やかな夏の海をイメージさせる漢字名を持つ彼は、あのときの印象通り、幾分変わり者だった。クラスオリエンテーションの真っ最中に、突然立ち上がって二階の教室の窓から飛び降りたのだ。教師やクラスメイト達がどよめく中、着地して起き上がるなり、校庭奥の桜並木へ走り出し、そのてっぺんまで登って、教室に向かって両手を振った。クラス中が大いに動揺し、特に女子たちがその奇行に絶句する中、阿須賀の行動への肯定的な心情が奥底にじんわりと広がった。それは一種の感動だった。逸脱の無い、普遍的で退屈なレールを、思わぬ方向からぶち壊してくれるなにかを求めていた陽は、この彼の行動に妙な高揚感を覚えた。阿須賀のななめ後ろの席に座っていた陽も、隣の女の子とどこの小学校出身か話していたことを見ていたので、彼が突如そんな行動に出たことにとても驚いたが、慌てふためく先生や不穏な雰囲気に包まれたクラスの中で、ざわめく教室の窓辺へ少しだけ身を乗り出した陽は、桜吹雪の中でくしゃみをしつつも満面の笑みで両手を挙げている彼を、しばらく眺めていた。
 阿須賀の初日の奇行は、大勢の人が目撃していたため、瞬く間に学校中に広がった。彼が桜の木に登った事件は、「サクラの阿須賀くん」と彼の名前を有名にした。特殊な行動に加えて目立つ容姿に、わざわざほかの学年から彼を見物にくる生徒もいた。彼に関する噂話が、そのひと月でたくさんできた。全国区の陸上部の部長が勧誘に来たとか、校長室に呼び出され三者面談をしたとか、なにか特殊な病を抱えているとか、本当は幽霊が見えているらしいとか、彼に関する身も蓋もない話が学校中に溢れた。阿須賀の奇行は発作のようなもので、いつも突然、なんの前触れもなく訪れた。その発作は多種多様で、授業中、急に立ち上がってチョークケースを箱ごと教室脇の花壇にぶちまけたり、休み時間寝ていたと思えば跳ね起きて机を何段にも積み重ねたりした。理科の実験中に台の上の実験器具を踏み荒らし、その上に寝転んだときだけはちょっとした騒ぎになったが、彼の小学校の同級生などはそれを楽しんでおり、しばらくすると彼の行動にもみんなが慣れていった。
 陽は、教室の隅で本を読むふりをしながら、ときどき阿須賀を観察した。彼は規則や時間に合わせて動く性質ではなく、朝からずっと居らず昼過ぎに現れることや、三時限目だけ抜けることも、移動教室中にいなくなることもあった。学校を休むこと自体はほとんど無かったが、授業を抜け戻って来る彼の制服が土埃などで汚れていることが多く、ただその辺で寝ているわけでもないのだろう、と陽は考えていた。
 五月雨が降るころには、阿須賀の噂も消息しつつあった。当の彼自身が、周囲が期待するほどに規格外のものではなかったためだ。普段の彼は、実に常識的なごく普通の中学生で、陽たちとなんら変わりない人物だった。彼は大抵、教室を賑わせる集団の中にいたが、中心で騒ぐことはなく、中心になる友人を笑っていることが主だった。授業中はたまに寝ているし、女子生徒に声をかけられれば嬉しそうにしているし、先輩後輩の規律をそれなりに重んじていて、苦手な先生には渋い顔をした。しかし、阿須賀の性格や為人が平凡である、ともまた言い難い。特に彼の感覚は、陽の思う「普通」ではなかった。とりわけ興味を持つ事柄、またはそれを失うタイミングが異様で、例えば教室で金魚の飼育を始めたときに、「黒い金魚を三匹、赤い金魚を一匹同じ水槽に飼うとどうなるか」と質問されたとき、阿須賀は嬉々として「赤が黒を共食いする」「三匹が合体して大きくなる」「赤が黒になる」「黒が区別できるように、羽や牙が生える」など、指名されるまでもなく様々な予想をした。しかし、先生が正解を言うころには、阿須賀の目の中の輝きは失われて、手元の温度計でビーカーの温度を測ることに注力し始める。このことから、陽は彼が最も大事にしているのは「想像力」で、真実には微塵も興味がないのだ、と考えた。同様に彼は、他人からの評価にとても鈍感だった。例えば体育の授業で褒められたり、担任に生活態度を詰られたりしたところで、彼は明らかに喜んだり怒ったりしないのだ。欠落といっていいほど、その言葉に対して何も感じていないようだった。それはちょうど、天才芸術家などが自身の過去の作品に興味を持たない姿に似ていた。
 陽と阿須賀は、出くわせば挨拶、たまの会話もトイレでの世間話、体育で同じチームになればクラスメイトの話、必要であれば声をかけると言った程度で、しばらくは親しい間柄ではなかった。陽は阿須賀の、色の薄い髪や瞳が好きだった。彼の髪は光に当たるとこげ茶色に薄くなり、田舎臭い自分やクラスの連中と比べれば明らかに色素の薄い部類で、春風と日向の香る教室の中、彼だけがまるで別世界の住人だった。純粋な日本人の真っ黒な髪とは別の遺伝子を持っているかのように、同じく日の光が当たると彼の瞳は、的確な言葉で言い表せないほど薄い向日葵の色に変わり、金色とも言い難い、しかし茶色の部類ではない色を放った。陽はその色を知りたくて、美術室の五十色鉛筆を眺めた。蜂蜜色、などに近いのだろうか、思ったが決めつけてしまうのは勿体なかった。そのころから阿須賀は陽にとって「聖域」になりつつあった。その田舎離れした容姿がすきだった。バリバリ日本人である、と言っていたが、もしかしたら遠い祖先に欧米系などがいたのかもしれない。けれど阿須賀はきっと、そんなことにも興味はないのだろう。陽は教室の窓からサッカーをする先輩たちを眺めながら、夕陽が連れてくる薄明りの思いに耽った。

 阿須賀の数ある異様な点の中で、とりわけ異質だったのは、スポーツに異常に優れている点だった。「運動神経が良い」という範疇ではなく、身体の使い方がよくわかっているというか、とにかくセンスが良かった。異質である、と感じるのは、手本一つでなんでも出来てしまうところで、それも手慣れてから成果をあげるのではなく、初めからある程度をこなしてしまうという説明のつかない不自然さが異様だった。カンニングではどうにもならないテスト、例えば作文なんかで、苦手な人が高得点を取るような違和感に似ていた。クラスメイトたちはそれを「天才」と言ったが、陽にはしっくり来なかった。なんというか、「再現が上手い」のである。手本である先生や、経験のある友人などのやり方を寸分狂いなく真似ているのだ。それ故か、飛び抜けて上手くならないのも、その異様な特徴の一つだった。
 桜の葉が新緑に移ろい、梅雨の温度が近づいてきたころ、夏前に入部する部活を決めなければならない規律を後回しにしていた陽は、その日何人かの部活を決めかねている連中と一緒にテニスコートを訪れた。希望者数の多い部はテストなどを設けて入れる新入生の数を制限しており、テニス部は当時流行っていた漫画の影響で人気があった。陽もその漫画を読んでいて、友人たちに誘われ興味本位で入部テストを受けることにした。その中には阿須賀もいたが、興味がなさそうに陽の斜め前で終始生あくびをしていた。
「テニスやったことある?」
 コートに立たされる級友を横目に、阿須賀の隣の友人が彼にそう尋ねるのを聞いている。
「ウウン」阿須賀が覇気のない声で答える。陸上部の勧誘は「走るのが嫌い」と断っていたと聞いた。
 入部のテストは、サーブを三球中一球決めることだった。入部希望者の大半が未経験者だったこともあるのだろう、初めてラケットを握る陽にとってもそれはさほど難しいことではないように感じた。が、自分の前の友人が全球外してしまったことと対比すると、なんとか二球決められた自分は運がよかったと思う。その場で先輩から合格だと告げられた。テニス部の二・三年生は今年の入部希望者ほど人数が多くなく、三年生が抜ければ部員は一桁まで減ると言われた。そのため三年生としてはなるべく多い人数を入れたかったそうだが、さすがに三十人越えの希望者を採用するコートはない。そのため、この選抜試験を熱気高い二年生が考えた。テストも後半になってきたそのころ、レシーバー担当の二年生たちがしびれを切らしてきて、へろへろの未経験者のサーブを股下に打ち返してみたり、どう見ても場外に出たサーブがものすごくはやいスマッシュになってかえってきたりした。テスト審査員をしていた三年生の部長はその二年の彼に、あきれ顔で「ほどほどにしろ」と釘を刺すと、彼らはにやにやと笑いながら返事をした。その内順番の回ってきた阿須賀の顔を見て、二年生たちはさらに大袈裟ににやにやし始めた。
「木下、まじめにやれ」副審をしていた三年生が見かねて注意をする。
「サクラの阿須賀くん。障害者なんだっけ?」
 その回レシーバーを担当していた木下先輩がさも楽しそうに笑う。陽の心臓が脈打った。誰かを傷つけると分かっている言葉を平気で言う人物を初めて見たからだ。障害者、という響きを阿須賀に指し示すのは違和感があった。詳しくは知らないが、きっと彼はそうではない。その言葉は聞こえていたのだろうが、阿須賀は気にとめていなかった。そこで陽は気づく。
「木下、いい加減にしろ。それ以上バカを言うなら下がれ」
 そのとき、審判席に腰かけた三年生が声を張り上げた。部長であると自己紹介していた彼は、きっとまともな人だ。陽はそう信じたかった。すっかり日寄ってしまった一年生の空気が張り詰める中、阿須賀にボールが三つ渡された。阿須賀はそのボールをしばらく見つめ、その内の一球を先輩に返す。
「どうした?」気に入らなかったのなら別のボールをやるぞ、と二年の先輩が言った。
「いえ」阿須賀は短く小さな声で答え、軽く深呼吸をした。ボールを高く投げ、ラケットを振りかぶる。ボールは、パン、と音を立て、美しい弧を描いてレシーバーのスペースへ入った。瞬間、木下先輩が容赦なくそれを阿須賀の左のつま先に打ち返してきた。一年集団から、ひぃっ、と引きつった声が上がる。阿須賀は無表情のままで、ネットに引っかかったそのボールを取りに向かった。
「木下!」副審の三年生が声を荒げる。「お前もう下がれ!誰か代われ!」
「部長」その時、阿須賀が声を出した。「もう一球、やらせてもらえませんか?」
 丁寧で静かな言葉遣いは、部長に受け入れられた。阿須賀はすっかり縮み上がった同級生の群れを背に、またサーブの位置についた。
「テニスやったことある?」「いんや」陽は数分前の阿須賀と友人の会話を思い出していた。阿須賀の落ち着きは異様だった。何かを確信したような表情で、奮起するでもなく身構えるでもなく、いやに飄々としていた。陽は阿須賀を食い入るように見つめた。彼が何かをしてくれるという期待のこもった心情が呼吸を乱す。阿須賀は、またボールを高くあげ、さっきよりも強くパン、と音を立ててボールを打った。それは先ほどよりも少し斜めにレシーバーエリアに突き刺さり、スピードに驚いた木下先輩がそれをあわてて低い位置で打ち返す。その瞬間だった。ゆるく大きな弧を描いてコートに落ちてきたボールの足元に走った阿須賀は、それを自分の肩より上で思い切り叩きつけた。一年の誰かが喚起する間に、そのボールは木下先輩の左足の太ももに音を立ててぶつかった。木下先輩のなさけない悲鳴だけが響く中、阿須賀は、言葉につまる審判台の部長にネットに引っかかったボールを返すと、シンと静まり返ったコートから、ため息をつきながら一年の集団へ戻った。
「難しいなぁ」
 へらへら笑いながら話す阿須賀を、話しかけられた友人が信じられない、という顔で彼を見ている。その後ろにいたクラスメイトが、阿須賀のパーカーを引っ張った。
「阿須賀、テニスやってたの?」
「ウウン」
「じゃ、なんだよあれ」
「得意なんだ、スポーツ」
 そういう次元じゃない、と周りにいた誰もが思った。ど素人が見て覚えたなどという返しではない。その場の空気は興奮よりも戦慄の方が近かった。コートの向かいにいる木下先輩はまだ太ももを抑えている。
「阿須賀だったな」
 部長が審判台から降りてきた。一年の集団に歩み寄り、阿須賀に声をかける。彼は立ち上がり、返事をして姿勢を正す。
「おめでとう、合格だ」
 言った部長の顔はなぜか無表情だった。やった、と声を上げる阿須賀以外、なんなら誰も笑っていない。
「入部してくれるか。今のテニス部にとって経験者は重要な戦力になる」
 固い物言いで話をする部長は、とても真面目な人なのだと思う。阿須賀は、経験者、という言葉になのか、腑に落ちない顔をしていた。
「木下の発言なら謝る。テニスが好きで、この部を大事にしているやつらなんだ。お前が入部して実力を見せてくれれば、すぐにお前を認めるだろう」
 切実な声の部長に気圧されたのか、阿須賀は勘違いされていると理解した様だったが、はいります、と一言返し、二人は固く握手を交わした。

 <続く>

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