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日本に帰って5日目の母親が「ドラえもん」の映画を見た結果、なんだか心が苦しい。

インドから日本に戻ってきました。てんやわんやの毎日ですが、おかげさまで元気です。

5歳の息子は、インドでは日本語のテレビを見られる環境におらず、ヒンディー語放送の「ドラえもん」をたまに見る程度でした。ヒンディー語なので細かい内容は理解できませんが、ドラえもんはドレモン、のび太はノビタア、ジャイアンはジアーンという発音で覚え、親しみを覚えていたようです。

念願の日本でのドラえもん。満を辞して映画館で見てきました。母である私も、日本を代表するアニメを見せてあげられることがなんだか嬉しい気持ちもありました。

ところが、上映開始たった5分で私は劇場から出たくなってしまいました。今までは違和感なかった当たり前の描写に、いちいち疑問や抵抗感が出てきたのです。

例えば、のび太のテストが0点で、先生や母親がのび太に怒鳴るシーン。
→テスト用紙を隠したいほどのび太を追い込んでいる周りの大人は、怒鳴って終わりなの?萎縮させたら逆効果だよね?のび太が理解しやすいように働きかけていない先生や親の役割がもっとあるのでは?誰かのび太に学ぶ楽しさを教えてあげて・・・(涙)

例えば、ジャイアンやスネ夫がのび太に暴力をふるったり、暗に圧力をかけてのび太を思い通りに行動させるシーン。
→のび太が嫌がっている以上、怖がっている以上、それはいじめじゃないの?明らかにモラハラ・パワハラ・いじめに見えるのだけれど、こんな場面を小学生向けの映画で何度も繰り返し描写していいの?これくらいはOKという刷り込みにならない?

例えば、しずかちゃんの入浴シーン。
→これは巷でもよく指摘されているけど、やっぱり疑問。なんであるの。文脈と全く関係ない。女の子はセクシーなもの、それを少し覗くのもOK、というようなセクハラ意識の第一歩になるのでは?

例えば、映画のキーワード「パーフェクト小学生になりたい」。
→パーフェクトって何?ネタバレになるから控えるけど、全ての項目で合格点を取らなくちゃいけない「暗黙の了解」的な空気が苦しくてたまらない。なんでできる子ができない子を応援することが感動につながるの?私自身がめちゃくちゃ不完全だし、息子にもパーフェクトになることがゴールだと思って欲しくないのよ〜。

自分がこんな「コウルサイ教育ママ」になるとは思いもしませんでした。しかし、これが日本帰国直後にドラえもんを見た正直な感想です。違和感の塊です。インドで千差万別の価値観に揉まれ、自分の視点が変わってきたのだなぁと感じ、この感覚を忘れぬようここに記しました。

ちなみに、自分の感想は息子には伝えていません。息子がどこまで表現を理解したかも把握しにくいし、誘導してしまうのもなんだか違うと思って。一方、夫には全て伝えました。男女間や世代間で見方が違うだろうし、その注意喚起と自分のスタンスを表明したくて。

親が好む物だけを子どもに見せるのは、それはそれで全く違うと思います。現実は現実です。しかしながら、幼少期のうちから大人の偏っている(かもしれない)価値観を子どもに移植するのはいい教育とは言えないよなぁ、と考えさせられた1日でした。

しかし、当の本人(息子)は映画よりも電車の運転席を眺める方が楽しかったようです。よし、明日も電車乗りに行こうねぇ。腕プルプルになりながら、運転席を覗かせます。

では、またー!

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