【読書】神に挑戦しても構わない~『第五の山』(パウロ・コエーリョ著、山川紘矢・山川亜希子訳)~
*この記事は、2018年8月にブログで公開した記事を再構成したものです。
『旧約聖書』に出てくる預言者の1人であるエリヤの人生を通じ、災害や戦争に代表される不幸が人生に降りかかる意味を問う物語です。エリヤの身には、これでもかこれでもかというほど不幸が降りかかり、読んでいて疲れます。
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また、山川夫妻の訳があまり上手ではないので、そこで集中力が途切れがちになります。英語が読める方は、英語版で読んだ方が良いと思います(もちろんポルトガル語が読めれば、コエーリョのオリジナルの文章で読めるので、更に良いでしょう)。同じ作者の『アルケミスト』は英語版で読みましたが、日本語版よりずっと心に残ったので。
映画の「十戒」や「エクソダス:神と王」を観ても思うことですが、ユダヤ教・キリスト教の神は、なぜこれほどに人に試練を与えるのでしょう?
『第五の山』ではその疑問に対し、私の解釈が間違っているのでなければ、以下のように結論を出しています。
神は安穏と日々を送り、変化を忘れている人間の目を覚まさせるために、試練を与える。だが決して、乗り越えられないような試練は与えない。試練に押しつぶされたり、試練から逃げ出したりすることは人間の自由だが、試練に立ち向かう者を神は助け、祝福する。
まぁここまでなら、ありがちですが、ちょっと驚かされたのは、もし神の意思が間違っていると思うなら、神に挑戦しても構わない、と書かれていたことです。時に挑戦することを神が望むこともあり、最終的にはそれこそが神の意思に適うことである、と。実際、『旧約聖書』自体にそれを示唆する部分があるのです。
私はクリスチャンではないので、「神の意志」を振りかざされると、やや辟易する部分もあります。でもこの本を読んだことで、時に無慈悲に感じられるユダヤ教・キリスト教の神への理解が、少しは深まったかもしれません。
見出し画像は、ユダヤ教・キリスト教・イスラーム教の聖地である、イェルサレムの風景を使わせていただきました。
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