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解脱への道は遠い~『ブッダが教える 執着の捨て方』(アルボムッレ・スマナサーラ)~

この本とは、ちょっとセレンディピティ的な出会いの仕方をしました。


以前ご紹介した小川糸の『針と糸』で、アルボムッレさんの「慈悲の瞑想」(この『ブッダが教える 執着の捨て方』にも載っています)に触れていたのですが、それを読んだ時、「この人の名前、聞いたことがあるな」と思いました。



それではたと気づいて、読んだ本・読みたい本が書いてあるノートをチェックしたら、やはり名前が載っていました。数年前、恐らくこの『ブッダが教える 執着の捨て方』が発売されて間もない時期に書店で見かけ、買おうか迷った末に買わなかった本の著者だったのです。


つまり、もともとアンテナに引っかかっていた本に、時を経て巡り合ったわけで、非常にセレンディピティ的です。著者のアルボムッレさんはスリランカのお坊さんですが、セレンディピティの語源であるセレンディップがスリランカのことであることを考え合わせると、更にセレンディピティ的。それで、この機会を逃さず、読むことにしました。


なおセレンディピティについては、以下の記事をご覧ください。


で、『ブッダが教える 執着の捨て方』ですが、「物と心」、「意見」、「儀式」、「我論」の4種類の執着を捨てなさい、というものです。なお最後の「我論」は、「私の意見」ではなく、「自分がいると考えること」です。


なかなか難しい内容を扱っているわけですが、本文の合間に合いの手のような文章が入ったり、章末にはまとめが書かれていたりして、分かりやすく書かれています。とはいえやはり歯ごたえある内容で、読了に結構時間を要してしまいました。


しかし執着は、あちらこちらで隙あらば私たちの足を引っ張ろうとしているのだなと、つくづく思いました。何につけても捨てることを推奨しているとはいえ、捨てること自体に囚われるのも執着であり、「こだわらない」ということも、度を越せばそれが執着になってしまう。解脱の道は遠いです。


とはいえこの本は、やはりセレンディピティ的に、読むべくして出会ったのかなとも思います。執着しているからこそ悲しみが生まれ、そして悲しみには怒りが含まれている、という話が出てくるのですが、昨年末以来、いろいろ腹立たしい目にあっている私には、身につまされる話でした。


確かに私は、得られるはずというか、得られて当然と思っていたものを得られないから悲しみ、そしてそれが怒りにつながっているわけです。悲しみを怒り、そして恨みに変えてはいけない、悲しみを人に役立つ行為につなげなさい、とアルボムッレさんは書いています。


この本を読む前に、期せずして私は、私を激怒させた相手に対し、相手の組織が抱える問題を指摘し、どういう風にしてほしかったかを伝えていました。結果、一部の事柄については改善してもらうことができました。


というと、何だかうまくいったようですが、激怒したこと自体が私自身を傷つけ、後遺症で心身が低調になりました。そもそも怒らないように、そしてそのためには、あらゆる場所に潜んでいる執着を捨てねばなと思った次第です。


手始めに、数日前にある人にちょっと失礼なことをされた時、「この人はそういう失礼なことをする人なんだ」という事実だけを受け止め、「こうしてくれるべきだったのに」などとは考えないようにしてみました。ま、確かに求めなければ、怒りにはつながらないなと思いましたが、何かちょっとむなしい気もしました。


やはり解脱への道は、遠そうです。



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