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和子さんの忍耐力に脱帽~『まぼろしの邪馬台国』(宮崎康平)~

邪馬台国関係の本では、恐らく古典中の古典とも言えるものかと思います。古すぎて、今となってはとんちんかんな部分もあるはずですが、逆にkindle版で現役で売っていることに驚きました。

↑kindle版


なお私が読んだのは1980年発行の新版よりさらに古い、1967年発行のものですので、記述はそれに従っています。


正直、面白いのは前半部です(しかも邪馬台国そのものの話とは別の部分で、興味深かった)。後半の、肝心の邪馬台国の位置を推測していく部分は、邪馬台国九州説を証明しようとするあまり、正直推測とこじつけが強いように思え、ダレてしまいました。もっとも、著者にしてみれば古語の音を元に現代にまで残る地名や自然条件に当てはめて、理論的に推理しているつもりだと思うので、私の感想は不本意かと思いますが。


でも、著者の主張の根底にあるものは、とても興味深かったです。

・『魏志倭人伝』の地名については、字面に囚われるべきではなく、あくまで音でのみ解釈すべき。

・記紀は天智天皇の革命を正当化するために書かれている(結果、天智天皇に都合の悪いことは隠されている)。

・天孫降臨は本当に天から下ってきたわけではなく、地上における他部族の平定の話。つまり神話的部分は、実際の人物の歴史として読みかえるべき。


以下、印象に残った部分を備忘録代わりに書いておきます。


これは、自分の知らない世界、つまり経験によって割り出される自分の理解可能な認識の埒外に問題の対象があると、自分の無力や認識の浅さを反省する前に、相手を疑い、またそんなばかげたことが――と断定してしまうからである。つまり、自己閉鎖である。

筆者が島原でバナナの栽培に成功したことを信じない人たちを指しての言葉ですが、心に留めておかねばならない言葉だと思います。


古墳の周囲に堀がある意味についての洞察には、瞠目させられました。

あれだけの封土に、あの堀がなかったら――堀ではない水だ――あんなに高く盛り上げた土の表面からは、間断なく毛細管現象で水分が発散している。そのために夏などたちまち乾燥して、ひとたび豪雨や台風に襲われると、ひとたまりもなく崩壊してしまう。水があって、はじめて封土は適当の湿度を保ち、あの厖大な土の塊が今日まで生きてきたことに気づいた。


また、古墳の築造の技術や工法、特に基礎について、土木学的に調べてみるべきとの指摘ももっともです。

あの大古墳の土は、そのままうずたかく積み上げただけでは用をなさない。さいわい、いくつかのものが崩壊をまぬがれたとしても、長年月の間には雨風や土圧のために、堀はおろか古墳そのものも姿をとどめなくなっているはずである。それがなんの損傷もなく、現在、堀をめぐらして、築造当時の姿で残っているということは、そこになんらかのしかけがほどこされているとみなければならない。


古墳は人海戦術ではなく、効率的な技術のもと作られたのではないかという指摘にも、うなりました。

人民を経済的な価値の対象として考えるならば、頭のよい権力者は、かえって粗末にしなかっただろう。(中略)人民を不必要にかり立て、非能率な仕事のさせ方をするのが権力ではない。むしろ能率的に人員を配置し、合理的に仕事をさせることによって、権力はさらに権力を拡大していったのである。


なお有名な話ですが、著者は目が見えず、この本を書くための調査と執筆にあたっては後妻となった和子さんの多大な貢献がありました。「記紀を合わせると五百回以上にもなるだろう」とあるように、まず文献調査にあたっては和子さんの読み聞かせが必須です。それ以外にも手で触って分かる地図を作ってあげたり、著者が「命じ」るままに地図から地名を拾ったり、涙ぐましいほどの努力と忍耐力です。

なのに著者は和子さんの話を「まわりくどい話だ。これだから女の話はやりきれない」と切り捨てるなど、和子さんの貢献に充分感謝しているようには思えず、ちょっとうんざりしました。まぁ時代性と言えば、それまでですが。そもそもその部分を原稿に起こしたのだって、間違いなく和子さんご自身でしょうしね。

見出し画像は、2017年12月撮影の、吉野ヶ里歴史公園(2001年開園)のものです。1986年からの発掘により吉野ヶ里遺跡が見つかった時は、すわ邪馬台国の都か、と騒がれたものですよね。


↑文庫版(古本の値段です)

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