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〈獣〉との朝食を懸けた戦い【掌編】

 独り暮らしの僕の食卓は、教科書や勉強道具を置いてしまえばもう余分なスペースがない程小さい。一人で食べて、一人で勉強することが運命づけられている、そんな小さな食卓。
 その前には、食卓の素朴さとは不釣り合いな大きな椅子が置かれている。この椅子は高さ調整もでき、なによりもやわらかなクッションのおかげで長時間座っていても、疲れづらい。僕のお気に入りである。とはいっても、あまり座っていないが。

 僕は昨日の夜に予約炊きしておいたご飯をお茶碗につぎ、小さな冷蔵庫の中から生卵と納豆を取り出してお盆に置く。そして、お湯を沸かしてインスタントコーヒーをいれれば、僕の朝食は完成だ。
 あとは、ゆったりと自慢の椅子に体重という自身の存在感を託し、この大地の恵みである食物を食べられる喜びを胸に、納豆•卵•ごはんをよく混ぜ合わせ、よく噛みしめながら食べればいい。
 この朝の時間が、ぼくにとって一番と言っていいほどの至福のひと時なのだ。

 ということで、諸々の準備を終え、朝食を食卓に運ぼうと振り返った時、僕の椅子には何やら奇妙な毛むくじやらの〈獣〉が座っていた。

 2つの目はぎょろりとしており、大きな口にギザギザした牙が見え、耳は二等辺三角形で先っぽがとんがっている。鼻は猫のように控え目で濃い紫色をしていた。見た目はサッカーボールよりも一回り大きいくらいの毛玉のように見えるが、よく見ると長い毛のなかに短い手と足があるのがわかった。その手に備え付けられている鋭い爪が、一瞬鈍く光った。見るからに物騒である。

 見るからに息が臭そうだ

 それがこの〈獣〉に対して抱いた第一印象であった。それほどその〈獣〉の存在は得体のしれないものだったし、その分きっと得体のしれない食べ物を食べていて、その分きっと得体のしれないニオイを口から発していて、そして僕はその得体のしれない臭いを間違いなく「臭い」と感じるという直感的な直観があった。
一言でいえば、彼の存在はどこか不潔だったのだ。

 その怪物は、何も言わずにじっと僕を見つめていた。僕は朝食セットを載せたお盆を握りしめた。思いのほか、冷静を保てていたが、心臓の高鳴りと共に、嫌な冷や汗が背中に流れる。なんともいえない沈黙が、10秒ほど続いた。

 こんなことってある?
 とりあえず怪物と僕、そして朝の納豆卵かけご飯セットという組み合わせ。なんてファンタジーな世界なんだ。

「おはようございます。」
 僕は平静を装って挨拶したが、その声はすこし震えていた。まあ、無理もない。
 〈獣〉はしばらく黙って僕を見つめ続けていたが、やがて大きな口に笑みを浮かべ、大きく口をひろげた。

「では、じゃんけんをしましょう。」

 〈獣〉は、思いのほか透明で高い声をしており、かつ紳士的な口調をしていた。僕はそのギャップにも驚いたし、怪物の突然の返事にもたじろいだ。やつは挨拶を返す代わりに、僕にじゃんけんという「決闘」を申し込んできたのだ。

「あの、僕にとって何もかもが突然なんですよ。あなたの存在も、じゃんけんの申し入れも。そして、そのどれもが僕のことを不快にしています。」

 獣は目を細め、フフっと上品に笑った。
「そうですね、なんの前触れもなく突然こんな毛むくじゃらが現れたのですから、さぞかし驚かれたことでしょう。これは大変失礼なことをしました。そのお詫びといっては何なのですが、じゃんけんをしましょう。」

「・・・よくわからないのでやめときます。」
 獣は目を細めたまま僕をまっすぐ眺めている。最初は笑みを浮かべていると思っていたが、気づくとその表情になんの感情も見出せなくなっていた。

「断ると言うのならかまわないです。それなら、このかぎ爪であなたを切り刻んで、わたしの朝ごはんにさせていただきます。わたしにとっては、それでもかまわないのです。まあ、あなたさえよろしければ。」
 毛むくじゃらの〈獣〉は紳士的な声のトーンと口調に合わない物騒なことを言い出した。しかし、言っている内容は〈獣〉の風貌によく似合っていた。

 僕は大きくため息をついた。
 とても面倒なことになりそうな予感がする。
「それでは、食べられるのは困りますので、じゃんけんをしましょう。その代わり、勝敗に関わらず、すぐ帰ってください。」

 〈獣〉は待っていましたとばかりに快活に微笑んだ。
「じゃんけんの承諾、ありがとうございます。しかし、勝敗に関わらず帰ってもらいたいというあなたの願いは聞き入れることはできません。それはあなたもご存じでしょう。この世界で、じゃんけんとは『決闘』であり、『契約』なのです。ここでの勝敗は必ず、明確に、お互いを規制し縛るものでなくてはならないのです。そして一方が得をし、一方が損を被らなくてはならないのです。」

 そうなのだ。この世界ではじゃんけんとは、ただの遊びでするような類のものではないのだ。もっと、真剣で、ある意味で命を懸けて行うものなのである。ここは、そういう〈世界〉なのだ。
「それではあなたの望む勝敗の縛りはなんですか?ただ、その縛りはお互いの同意の上でのみ有効なものです。条件次第では、私は断ります。」

 獣は右側の口だけを釣り上げ、目を光らした。
「〈朝ごはんを懸けた戦い〉ですよ。勝った方がその朝ごはんを食べることができる。」
「では負けた方は?」

「負けた方は、勝者が最後のご飯一粒を食べるところまでを見届けた後に、このナイフで勝者の胸を突きさすのです。」

 バン!!
 突然ナイフが机に突き刺さった。天井から降ってきたのか、どうしたのか、僕の机にナイフが突き刺さっている。よくわからないが、とりあえず僕のたった一つの食卓が深く傷ついたのだけは確かだった。しかし、そんなことどうでもよかった。
「いや、朝ごはんを食べるのにそこまでする必要はありませんよ。二人分くらいのご飯も卵も納豆もありますし、一緒に食べたらいいでしょう。しかも、じゃんけんで勝ったらナイフで刺されてしまうなんて、割に合わなすぎます。」

「先ほども言ったように、この申し入れを断ったらあなたを私の朝食にします。あなたには、選択肢はあってないようなものなんですよ。私の鋭い牙と爪という〈理不尽〉を、あなたは受け入れるしかないのです。」

 僕は大きくため息をついた。やってられない。生殺与奪のイニシアティブを取られている時点で、僕はすでにお手上げ状態だったのだ。
「わかりました。」

 獣はにっこりと笑った。獣でも笑うと幾分かわい良く見えた。そう、ブサカワというやつだ。
「それではすこし注意しなくてはならないことがあります。私の手をごらんなさい。私は爪が長く丈夫なのですが、指が短くて、あなたのように器用に動かすことができません。まあ、言ってしまえばグー、チョキ、パーの内で、私はパーしか出せないのです。」

 獣は、毛むくじゃらの体毛の中から腕を持ち上げ鋭い爪をもった手をひらひらと見せた。確かに、その手ではグーもチョキもできなそうだった。

「つまりは、あなたは自由に選べばいいだけなのです。〈勝つ〉か〈負ける〉かをね。」
 獣は大きく目を見開き、不気味に微笑みながら一段と声を低く言い放った。その声には、どこかこの状況を楽しんでいるようなトーンが混じっていた。〈獣〉は自身の持っている生殺与奪の権を放棄して僕に与えたのだ。僕には選択肢があるようでなかったのだが、そんな理不尽の中で気付けば新たな選択肢がこの手に握りしめてられている。

 僕は正直ほっとした。
「わかりました。」

「それでは行きます。じゃん、けん、ぽん」

 僕はグーを出した。獣は予告通りのパー。僕が〈負けた〉。獣は野蛮な声を上げて笑い出した。その声を聞いた時、僕は選択を誤ってしまったのではないかと不安になった。それほどに、〈獣〉の笑い声には不吉な響きがした。
 すると突如として、獣の手が伸びて僕の手から朝食セットの乗っているお盆をひったくった。紳士的な〈獣〉は、納豆のパックごと、卵の殻ごと、ご飯の茶碗ごと、口の中に放り投げボリボリと食べてしまった。幸いなことにお盆は食べられなかった。
 獣は満足そうに目を細めた。口の中には茶碗の破片が散乱しているはずだが、獣の口が異常に丈夫なのか、それかとても器用に食べたのか、口の中を切ることもなく良く噛み、すべてを飲み込んでしまった。

「私はこれで満足です。さて、それではこのナイフで私を突き刺してください。ひと思いに、グサッとお願いします。」

 食卓に突き刺さったナイフが家の蛍光灯を反射して鋭く光る。なんと潔い〈獣〉であろうか。僕は今からあの小さな胸に、このナイフを突き刺さなくてはならない。それが、この〈じゃんけんの縛り〉なのだ。

 しかし、これははじめからわかっていたことなのだが、僕に〈獣〉を突き刺すことなどできなかった。決して。
 それはこの獣が、あまりにも流暢に日本語を話し、意思疎通できたからかもしれないが、そもそも生き物に〈ナイフを突き刺す〉という行為自体が、僕の世界の外側にあることのような気がした。僕にとって、あまりにも現実的ではなかったのだ。

「僕には無理です。あなたにも、最初からわかっていたでしょう。」
「駄目ですよ、あなた。それは契約違反となります。さあ、早くナイフを取ってください。」
「いえ、駄目なんです。僕にはあなたを1㎜だって突き刺すことができそうにないんです。本当です。」
「あなたは、じゃんけんの恐ろしさを知らないようだ。それか、ただ頭で理解しているだけで、その〈真正さ〉を何一つ〈信じていない〉のでしょう。〈じゃんけんの縛り〉は、お互いに降りかかってくるものなのですよ。つまり、あなたの契約違反は、あなただけではない、私にも跳ね返ってくるのです。それは、たんに〈負ける〉ことよりも、または〈勝つ〉よりも、恐ろしいことが起きてしまう。」

 僕はため息をついた。
「それでもだめなんです。想像するだけでも耐えがたいし、その後の片付けだってとっても面倒そうですし。」

 獣は目をギラギラさせながら僕の言動の一つ一つを吟味するように見つめていた。しかし、彼にも僕にはそんな意気地のないことが、最初からわかっていたようであった。それは、先ほどからプルプルと笑いを押し殺すように歪んでいる〈獣〉の口元が物語っていた。

「私はじゃんけんに〈勝つ〉ことで朝食を口にし、〈負けた〉あなたによってナイフで刺し殺されなくてはならない。それが、私たちの〈じゃんけんの縛り〉です。それが私たちの唯一の繋がりであって、それは必ず起こらなくてはならない。あなたもわたしも、じゃんけんをして勝敗が決してしまった以上、それを拒否することは〈この世界〉ではできないんです。」

「それではどうなるんですか?それでも僕の意思がある限り、僕はあなたにナイフを突き立てることはできそうにない。かといって〈じゃんけんの縛り〉自体が無理やり僕の手を取って、あなたに手をかけることができるわけでもないし、状況は平行線のままです。」

「いえ、この縛りはいわゆる〈運命〉みたいなものとなのですよ。つまり、あなたは間違いなく私にナイフを突き刺すことになっているんです。そうでなければ、〈この世界〉にはいられないのですから。あなたが私に手を下さない限り、私はあなたのそばにずっといることになります。逃げても無駄です。どこにいようが、何をしていようが、この〈じゃんけんの縛り〉が私たちを結び続けるのです。」

「それが狙いだったんですか?」

「いやどうでしょうか。」
〈獣〉はおかしそうにフフフと笑った。

 それから、僕は常にこの奇妙な生き物と一緒に生活することになったのだが、彼との同居生活は案外わるくなかった。彼はとてもスマートで、話していて飽きることがなかったし、実は料理も上手で、僕の帰りが遅い時は夕食を作って待ってくれた。僕は、彼との共同生活に心地よさを感じるようにさえなっていた。

「いいですか?あなたはこのナイフで私を突き刺さなくてはならないことを忘れてはいけませんよ」
 僕が楽しそうに笑っていると、彼は時々僕に注意した。僕らの関係性を確認するかのように。また、夏休みの初日にしっかりとその終わりを見据えさせるように。

 そうだ、それが僕らの縛りであり、契約なのだ。ただ何も急ぐことも無いだろう。突然の出会いであったからといって、同じように突然消し去らなければならないという訳でもあるまい。少なくとも僕にはそのように感じられるのだ。

「確かに僕は君との関係をいつかこのナイフで断ち切らないといけないんだろうね。でもそれは今じゃない。そんなに焦らなくてもいいんだ。君だって勝手に僕の世界に入ってきたのだから、僕だって勝手に君を追い出してやるさ。でもそれは今ではないんだ。」

 それから3年が経った今でも、僕らの奇妙な共同生活は続いていた。もう僕はその毛むくじゃらを〈獣〉と認識することはなかった。もはや、人かどうかもどうでもよかった。僕らは〈残酷で暴力的な終わりの約束〉で繋がりながらも、その上で共に語り合い、笑い、ナイフを持ち出さない程度にケンカをした。
 僕はいつしか彼に〈友情〉のようなものを感じるようになっていた。

 ただ、彼の得体のしれないニオイは、やはり僕にとっては〈臭かった〉。やはりね。

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