村上春樹はドリブラー
はじめて読んだ村上春樹の作品は『羊をめぐる冒険』だった。
大学1年の時に下宿で一緒に住んでいたイギリスからの留学生(といっても彼は日系で日本語も堪能だった)が、とても面白いから読んでみろと勧めてくれたのだ。
僕は大学生になるまで、恥ずかしながらちゃんと読んだ本といえば、中学生の時に没頭して読んだハリー・ポッターシリーズくらいのものだった。だからなのか、はじめて読んだ村上春樹の小説の面白さは、当時の僕にはあまりわからなかった。
彼の作品はなんだか不思議な世界観を持っていたけど、それでもハリー・ポッターみたいにわかりやすく魔法がでてこなければ、箒に乗ったスポーツもないし、「名前を言ってはいけないあの人」との決闘もなかった。まあ、当たり前のことなのだけれど。
「ちょっと、よくわからなかったな。僕にはちょっと難しかったのかも」
僕はそういって、イギリス人の彼に『羊をめぐる冒険』の下巻を返した。
それ以来、僕の6年間(2年ほど休学した時期も含めて)の大学生活の内、村上春樹が出てくることは殆どなかった。
*
そして去年、大学院生となった僕は、また村上春樹の小説を手に取ることになった。きっかけは、自称「ハルキスト」(熱烈な村上春樹ファンたちの通称。ひそかに村上主義者と名乗るのを好む者もいるそうだ。)である友人とのなんてことのない会話であった。
「最近、これを呼んでるんだ。」とカバンから小説本を取り出しながら友人は言った。「村上春樹の『騎士団長殺し』だよ。」
彼は水戸黄門のお供が紋所(もんどころ)を見せつけるような勢いで僕に小説の表紙を差し出したのだが、いかんせん村上春樹に対する関心が無いので僕は反応に困った。
その日、僕はそのハルキストの友達から村上春樹の良さを耳にタコかイカができるくらい聞かされた。「聞かされた」とは言っても、そこまで悪い気はしなかった。何かを熱烈に愛している者が語る熱のこもった話は、だいたい聞いていて面白いものだからだ。僕は自然と再び村上春樹に関心を持つようになった。大学1年生の頃の僕は、いつもサッカーのことで頭がいっぱいだったし、とてもじゃないけど文学的に味わいながら読もうなんて言う気概はなかった。でも今なら、あの時とは違った風に読めるかもしれない。
僕は次の日、さっそく大学の図書館で村上春樹の作品集の第一巻を借りた。
その本には『風の歌を聴け』と『1973年のピンボール』という彼の最初期の作品が収録されていた。僕は夏の図書館で、適当に空いている自習机を見つけて、適当に座って、適当に本を開いた。他に読むべき論文なり参考資料なりが山積みであったが、そんなことお構いなく閉館時間までページをめくり続けた。
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6~7年越しに村上春樹の小説を読んだ僕は、6~7年前の僕と結果的に同じようなことを思った。
「ちょっと、よくわからなかったな。僕にはちょっと難しかったのかも。」
何が言いたいのか、この小説が描こうとしているものは一体なんだったのか、よくわからなかった。文章自体は読みやすいから、いわゆる難解な古典文学とは違った難しさだ。むしろ、難しいというよりも意味深(いみしん)と言った方があってるかもしれないし、もはや無意味な作品と切り捨ててもいいのかもしれない。それでも、ひとつだけ昔の僕とは違った感想を付け加えるならば、とにかく文章が「おしゃれ」だった。
僕には彼の文章が、軽やかなステップを踏みながら、華麗にディフェンダーを交わしていくおしゃれなドリブラーのように感じた。彼の文章は、ひたすらにドリブルをしているようだった。あてもなく、敵味方も関係なく、ただ美しく走り続けていた。前に進んだと思ったら、後ろに横に展開し、そして思わぬ瞬間にパス、かと思ったらまたドリブルし始める。時に、小説全体が無意味に感じたのは、そのドリブルがゴールに向かっていないようであったからか、または僕がそのゴールの場所を認識できていなかったからか。
「完璧な文章などといったものは存在しない。完璧な絶望が存在しないようにね」
僕が大学生のころ偶然に知り合ったある作家は僕に向かってそう言った。僕がその本当の意味を理解できたのはずっと後のことだったが、少なくともそれをある種の慰めとしてとることも可能であった。完璧な文章なんて存在しない、と。
村上春樹『風の歌を聴け』、講談社、7頁
「メロスは激怒した。・・・云々」
「祇園精舎の鐘の声・・・云々」
「国境の長いトンネルを抜けると雪国だった。・・・云々」
名作というのは、大体においてその出だしが印象的だ。
そして前で引用したように、
村上春樹の処女作である『風の歌を聴け』の出だしも中々に印象深い。
初期の二作品を読み終わった後、とりつかれたように、はたまたは義務的に、図書館に置いてある村上春樹の作品を長編、短編かまわず読み漁っていった。周りの友人や家族から、村上春樹のなにが面白いのかとよく聞かれる。そういう時は、「なんていうんだろうね、ただ≪読んでしまう≫、いや、≪読ましてくれる≫、そんな力が彼の文章にはあるんだよ」と適当に含みを持たせて言っておく。でも正直、なにが面白くて読んでいるのか、自分でも未だによくわかっていない。僕は果たして、ハルキスト(または村上主義者)になったのだろうか。
「僕の中で村上春樹はドリブラー、それも華麗に舞うタイプのドリブラー」
とりあえず、それが僕の村上春樹の小説から受けた感想だ。
今のところではあるけれど。
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