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そよ風が頬をなでた。【掌編】

「カンヅメ」その一言がとてもふさわしい。

朝起きて夜寝るまで、自宅の一室でほとんどすべてが完結している。

午前は論文作成、午後も論文作成、夕食後も論文作成。
そんな日々に、Bは満足しつつも、退屈していた。

研究の繰り返しの繰り返し。
たとえ好きなことであっても、習慣化されていくと「自分の意志とは違うところ」で日々の行動が行わていくように感じられる。

人はいう、「好きなことでも仕事にしたとたん《好きではなくなる》」と。
Bもその意見に半分賛成していたが、半分異なった意見を持っていた。

彼はいう、「体に染み付いた習慣は、自分の好き嫌いに関わらず行えるようになる。それはつまり、『好きだから』やっているのではなく、『習慣だから』やっている状態になったしまうということだ。言い換えると、それは《好きだったのもが嫌になった》のではなく、習慣化によってそれが《好き嫌いの領域の外にいってしまった》ということだね」

そんなことを言いながら、彼はまた同じような日々を繰り返し行っていった。
彼の意志とは関係なく、
彼は本を開き、それをまとめ、論文の形式に整えていった。
機械的に行われるその作業を、彼は「ガムを噛む」といった。

「今日も僕はガムを噛んだ。昔は美味しく感じたけど、もう味がしない。いや、それこれこそが《ガムの味》なんだろうね」

昨日もクチャクチャとガムを噛み、今日もクチャクチャと噛んだ。
そして明日も変わらずに、、、

しかし、ある朝のことだ。
Bはいつもよりも3時間も遅い午前9時に目が覚めた。
(あれ、もうこんな時間になってしまっているなんて・・・)

Bはあわてて、起き上がろうとした。
しかし、体が非常に重く、眠気で頭がふらついた。
(体調が悪いのかもしれない。午前中は寝て、午後からまたいつものように研究をしよう)
彼はそう思うのと同時に、またベッドに沈み込んだ。

午後をつげるアラームがなるまでに、Bは何度も目を覚ました。
しかし、それと同時にまた目を閉じた。
何度も、《脈略のない夢》を見た。
もはや、彼にとって寝続けること自体が不快になりつつあった。
しかし、Bは目が覚めるとすぐに、そんな世界に飛び込んだ。
(もう少しだけ・・・)

そうやって、Bは3日間寝続けた。

―――

Bはフラフラとしながら、やっとのことでベッドから抜け出し、洗面所の前に立った。
鏡には、無精髭をはやし、力のない目をした男が映っていた。
(・・・私は、なんて顔をしているのだろう)
Bの頭の中に、さっきまで見ていた夢の騒音がまだ響いていた。
彼はなんとか蛇口をひねって水を出し、顔を洗った。
水の冷たさを感じるとともに、Bは喉の渇きを覚えて、今度は水を滝をすするように飲みだした。

Bは顔をあげ、大きく深呼吸をした。
鏡の中の不潔な男も、同じような動きをしている。

「お前は一体誰なんだ」
彼はそうつぶやくと、フラフラとした足取りで外に出た。
無性に外の空気を吸いたくなったのだ。

建物の外は、部屋よりもいくぶんと涼しく、ほんのりと秋の香りがしていた。
Bはやわらかな日差しを全身で浴びながら、近くの草原に寝転んだ。

すると、そよ風が彼の頬をなでた。

Bは気がつくと涙をながしていた。
彼は静かに目を閉じて、大地の歌声に耳をすませた。

Bは衰弱している身体を感じる一方で、意識がだんだんと明瞭になっているのを感じた。
しかし、なぜだか《ガムの味》を思い出すことができなかった。
ただ、胸いっぱいに草原の青々しい香りが広がり、遠くの雲が近くに見えた。

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