君のために言っている。【掌編】
「君のために言っている。」
それが彼の口癖だった。彼は人の欠点をあげつらっては、自分は善人のように振舞った。
ノーブレス・オブリージュ
そう、それが彼なりの正義であり義務であったのだ。
人の欠点を大声で指摘すると、その人に嫌われるかもしれないし、人々に煙たがれるかもしれない。しかし彼にとっては、それでも勇気を出して指摘するべきことだった。
それが「君のためになる」と彼は心の底から信じていたのだ。
*
ある日、彼はいつものように、会話の中で論理が通らないことを言っている人を見つけて注意した。
「君の言っていることは、ぜんぜん論理的じゃない。会話をしていると主語がよく抜けるし、君の意見と客観的事実がごっちゃになって語られているから人に誤解を生みかねない。イギリスからの留学生で僕と同じゼミに所属しているマイクの方が、君よりよっぽど日本語がうまいよ。」
と彼はいつものように早口でまくし立てた後、いつものセリフを口にした。
「まあ、これも君のために言ってるんだけどね。」
*
ある日、彼はいつものように、人の上げ足をとっては、その人が「無知」であることを示して見せた。
「君は何かを知っているかのように振る舞っているけど、実際何もわかっていないじゃないか。まったく、ソクラテスもびっくりだね。」
彼は眉毛の八の字にして、哀れなものをみつめるような目をした。
「まあ、自分が無知であることに気付くのは決して気持ちのいいことではないだろうけど、これも君のためにいっているんだよ。理解してくれたらありがたいね。」
*
ある日、彼は先輩に呼ばれて注意された。
「おい、君はいつも人に注意をして回っているそうだけど、みんな迷惑していると言っていたよ。君は、みんなに『君のために言っている』と強調するそうだけど、誰一人として君の指摘でよりよくなっていないようだ。怠惰なやつはいつまでも怠惰だし、ナルシストはいつまでもナルシストだ。君がみんなに施しているのは治療というよりも、むしろ毒の注入なんじゃないか?おい、聞いているのか?これだって、君のために言ってるんだぞ!」
彼は鼻で笑って、先輩の言葉を地面に投げつけ踏みつぶした。
「おかしいことはおかしいと正直にいったソクラテスは毒を飲まされるはめになったし、イエスは十字架にかけられることになったわけだ。正しいことを言うものは、人々に嫌われてしまうものなんだ。だけどね、先輩、僕の言動が本当に正しいことなら、時間がそれを証明してくれるんだ。いつか、君たちもわかる時がくるはずだよ、僕がひたすらに『君たちのために言っていたこと』をさ。」
彼はそう言い捨てると、挨拶もせずに踵を返してその場を去っていった。その先輩は、彼の後ろ姿を遠くに見えなくなるまで黙って見つめていた。
*
彼が正しかったのか、彼を嫌った人々が正しかったのか、時間がそれを証明してくれたのかはわからない。
しかし、もしそのどちらかがすでに証明されていたとしても、誰も気づかずに通り過ぎていくだろう。つまり、彼が語っていた「君のために言っている」ことは、それほどまでに些細なことであったからだ。
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