見れない映画6:映画SF


・『あなたの人生の物語』のこと

映画『メッセージ』(ドゥニ・ヴィルヌーヴ監督、2015年)は、原作の優れたSFのアイデアをおそらく半分ほどしか映画に生かしきれていない。
確かに映画は、映画化に失敗してもあまりある小説のほうのアイデアで、それなりにかなり魅力的な作品になっている。しかし、映画と小説の違いは決定的だ。テッド・チャンの小説は、小説ならではの「見えない」という語りの特性にアイデアとしてのかなりの部分を依存している。それは、映画のあからさまに「見えて」しまうメディアの特性にはそもそも酷なアイデアなのだ。
原作『あなたの人生の物語』の着想は、言語学というアイデアをモチーフにしたタイムマシンとエイリアンものの合わせ技とまとめられるだろう。主役である言語学者を視点人物にした、将来自分が持つ娘の短い生涯についての記憶と、突如地球に飛来したヘプタポッドと呼ばれる地球外生命体との交流。この二つの筋を交互に呼び出す、言語学者の語りをつくる奇妙な時間感覚は、地球で生きる私たちとは異なる時間認知を持つ「ヘプタポッド」の言語を身につけた、彼女の意識のタイムトラベルによるものだと終盤で種明かしされる。つまり、言語学者がエイリアンと出会って新しい言葉を覚えるとタイムトラベルができるようになるという物語なのだ。そこで、ヘプタポッド=エイリアンの姿と、それらが使う文字は小説の中でどこまでも「見えない」。
エイリアンの姿が登場人物たちの顔同様に見えないのは当然として、ここでは「言語」というものの全体像の見えなさが語りの鍵になる。
本作には、言語学者のチームを組んでヘプタポッドの言語解明に勤しむ物理学者というのが登場する。奇妙なことに、ヘプタポッドは私たちが扱う幾何や代数といった初歩的な数学を理解できない。その代わり、それらは「フェルマーの変分原理」を代表として説明される微分法のほうを容易く理解する。「フェルマーの変分原理」が、私たちとは異なる物理の認知を持つ生命体との唯一の共有言語になるとき、同時にただそれだけが共有可能な物理法則であることで、人間たちはヘプタポッドがわたし達とは異なる時間感覚に生きていることを知るのである。
一方、言語は物理法則という、一連の式において条件を羅列する網羅性や機能性を持たない。そこで、全体像の見えない言語というものについて、異星人のそれと私たちのそれとの違いと共通点とを幾何的に示唆するモチーフとして物理学は機能する。
エイリアンの身体と、エイリアンの言語。つまり、私たちにはそれとは異なる形で同じ機能を持つはずの身体と言語があるから、そこに私たちとは異なる、「見えない」なにかが現れ始める。『あなたの人生も物語』とはひとまず、そのようなセンス・オブ・ワンダー=未知のものへの驚きに支えられる小説だと説明することができるだろう。


・『メッセージ』(2016)のこと

先に、映画化に際してエイリアンの身体とその文字が見えるようになってしまったと述べた。文字については、この記事が詳しい。

文字においてはその視覚化についてかなり成功している。それは、たとえそれが未知の言語であっても、それがアニメーションに、画に、デザインに、カリグラフィーに、つまり静止画に由来するものであるからと思われる。
文字は固定されて意味をなす記号である。映画における身体はそうではない。動き出すことで画が壊れることに意味がある。停止して意味をなす「画」としての文字と小説(文章メディア)の相性の良さと、動き出して「画がこわれる」ことで快楽を発揮する身体の運動ととの相性の悪さ。本作の失敗はまさにそこにある。

映画化によってほとんど蛇足的に加わったシークエンスがある。
映画の後半には、ヘプタポッドへの単独の軍事行動を中国の軍隊が仕掛ける展開が用意されている。人類はヘプタポッドとの武力衝突の危機に直面し、各国の政府はヘプタポッドからの暗号パズルの課題によって互いの利害を超えた協力を試され、主人公は武力衝突を避けるために奔走する。
この問題の第三幕は、一つの爆発から幕を開ける。主人公らが「姿見」と呼ばれるインターフェースを通じて交流してきた部屋で、主役のルイーズはヘプタポッドから投げかけられた言葉の真意を探るために防護服を脱ぎ、素手で「姿見」のスクリーンに触れ、同じ仕草でイカのような吸盤をガラス越しに這わせるヘプタポッドと対峙し、次の瞬間にヘプタポッドが叫び声を上げるように大量の文字を画面いっぱいに放出する。続いて、急激な爆発が部屋全体を襲い、それは後から、ヘプタポッドの脅威を唱えるテレビ番組を見すぎた若い兵士が引き起こしたテロ行為だと判明する。原作読者からすれば、それはいかにも不必要な「ハリウッド映画」的な改悪に思われるかもしれない。爆発も戦争騒動も原作通りであれば必要なかった、と。
ただ、映画のセオリーからこのシーンを擁護もしておきたい。劇映画の脚本のセオリーに基けば、三幕劇構成にする必要があるし、映画が身体の運動=アクションを描くものである以上、なにかしらのアクションのためのシークエンスが必要になる。
そして映画におけるアクションは言葉と対立してその効果を発揮するものなのだ。今回でいえば、未知の言語でコミュニケーションを試みる学者とヘプタポッドたちのやりとりは、いつか決裂するかもしれない緊張が全編におけるサスペンスとして仕掛けられている。
つまり、映画のセオリーに基けば、アクションのシーンを配したことに問題があるのではない。むしろそれが誰の(何の)アクションであったかに大きな問題がある。何よりも本作が失敗しているのは、アクションではなく爆発へのリアクションをヘプタポッドという人工的に作られたものの身体に求めたことにある。
映画を通じて魅力的になるアクションというのは、それが動物のものであれ、人間のものであれおそらく「知っている身体の知らない動き」として描かれるものである。だからこそ言葉や意味に反する運動は、そこで「意味や理由はわからないけれど、そんなふうに動いてしまう」こととして驚きと快楽を持って受け入れられる。だとすれば、CGや特殊メイクで作られた人工的な「エイリアン」の身体には「びっくりして飛び退く」ような不意のリアクションが取れないのである。その代わりとして現れる大量の文字を吐き出すリアクションというのが、いかにも作り物めいて興醒めであることは言うまでもないだろう。
一方、ヘプタポッドのぶよぶよとした軟体動物めいたモンスターとしての身体が最も活躍するのが、姿見ではなく研究者たちの実質の控え室である軍の基地でルイーズが部屋の隅に詰まったその身体を幻視する場面だ。はっきり言ってこうした特殊メイクのモンスターは、人工物としてのリアリティが全面に出たときに一番不気味な迫力を発揮する。そもそもが作りものである。ライオンやサメ、私たちが生き物として知っている動物がそこにいるのとは訳が違う。生き物がそこにいるから怖いのではない、物のように見えたものが生き物のように動くから怖いのだ。そしてその不気味さというのは、見るからに人間の身体であるものが予期せぬ動きをするときの感動や驚きとは相容れないものなのだ。



・段取りとSFこと

こうして元々は映画化されたSF小説の原作、それも比較的新しい例から作品を選んでいくつか小説という表現と、映画という表現を引き比べてみるつもりだった。それで実は、2本目に選んだ例があまりにも擁護しきれない作品で、それからも『メッセージ』ほどに適した例が見つけられなかったので少々趣旨を変える。というか、失敗作と言いつつ『メッセージ』は映画とSF小説の相性の悪さを示す稀な好例でさえある。比較も困難で、目も当てられないような無残な失敗作のほうが実際にはずっと多い。
身も蓋もないが、ここから私の好きなSF映画の話になる。というか好きなSF映画というものを考えていて、そもそも作りが映画に適したSFというのがいくつかあることに思い至った。例えば、『デジャヴ』(トニー・スコット監督、2006年)は、一定の領域内で起きた4日前の景色を監視カメラから再現する疑似タイムトラベル装置を使ってフェリーの爆弾テロ事件の犯人を探す犯罪捜査SFであるところがそうだし、『ミッション8ミニッツ』(ダンカン・ジョーンズ監督、2011年)は、瀕死の重傷を負ったアフガニスタンの帰還兵が列車の爆発事故の被害者になり代わり、再現された爆破直前の8分間を何度も探索することで、犯人を捜索するという設定がそうである。こうしたSFがいかにも映画に向いているというのはつまり、そこでアイデアとして採用される架空のテクノロジーの仕組みが映画の演出と似ているということである。結論を言うと限られた時と場所における人の動き段取り、それの繰り返されるやり直しというアイデアが現実を異化する時、SFは映画っぽくなるのだ。
先に取り上げた『メッセージ』で、映画として最も魅力的なシーンというのがあるとすれば、ヘプタポッドが待ち構える「姿見」の部屋へとルイーズたちが移動するシーンだろう。産道を模した宇宙船内のエレベーター状の暗い部屋に研究者たちが並び、ワゴンらしき部屋ごと上昇していくと途中で重力の方向が90度変わる。そこでそれまで壁であったところが床になって、遊泳しながら新しい地面に着陸する研究者たちを描くこのシークエンスに魅力を与えるのは、なんといってもこの狭い空間を通っていく人間の身体の動線である。


SFでなくとも、映画とはそもそもそういうものだ。カメラで切り取られた空間を視点の移動という時間の制度によって並べ直し、また一方でその空間の中に人や物の動線を配置し直すことで物語を構築する。それ自体が映画であるとした時に、そうした空間を時間に編み直すフィクションの人工的な作為性が現実の社会的常識を、そして自然の物理的常識を改変してしまう時に映画の中のSFが生まれるのではないのか。ここではそれを「映画SF」と読んでみたい。SFのアイデアを持つジャンル映画が「SF映画」なら、映画の表現に基づいたSFは「映画SF」というわけだ。
一世を風靡した『マトリックス』(ウォシャウスキー兄弟監督、1999)のような映画の例は今や、奇妙なものに映る。インターネットが広く一般に実用化され始めた時代に、実はこの現実は全てシミュレーションであるとして現実の都市を舞台にカンフーアクションをやってみせるというのが趣旨であるとしたら、そのコンセプトは今や成り立たないだろう。ネットワークにアクセスするためのインターフェースがすでに現実社会に多様な形で入り込み、『Serch』(アニーシュ・チャガンティ監督、2018年)のような画面内で全てが完結する映画さえ作られたような時代になって、電脳の計算空間とは「段取りされたシミュレーションとしての現実」だと言われてもぞっとしない。コンピュータとネットワークにとってはもはやそこに身体があること自体がリアルではないのだ。
ただ、一方で「映画SF」がいかにも時代遅れで荒唐無稽なものかというと、そうでもない。2018年にターナー賞を受賞した、犯罪調査の民間企業、フォレンジック・アーキテクチャーのような例もある。

限定された時・空間の中でなにがあったのか。プログラマー、映像作家、弁護士ら多様な専門家が実際の紛争現場や犯罪の捜査に取り組む、このきわめて現実的な報道機関の取り組みは、一方で非常に映画的なSFアイデアの実用例とも見なすことができると思うのだ。それでこれは、映画に限らず極めてSF的なアイデアでもあると言うことは念の為留保しておきたい。

・見切れSFのこと

映画SFの具体的な特徴をもう一つ。こんな話を聞いたことはないだろうか。スティーブン・スピルバーグの『ジュラシックパーク』(スティーブン・スピルバーグ監督、1993)に登場する恐竜たちというののほとんどは、ジュラ紀ではなく白亜紀の恐竜である。

ここで問題にしたいのは、ジュラ紀と白亜紀という言葉の表記の問題ではない。ケラトサウルスのようにジュラ紀の恐竜も本作には登場する。なにより人間と恐竜の夢の共演が本作のテーマであるとき、この映画は数億年単位で本来別々の時代に属する生き物が一つの画面に共存するのだ。
いかにも映画的なSF効果、この「映画SF」の特徴は合成写真のような演出に宿る。アメリカの田舎町に飛行機が墜落し、戦車が走り回る『宇宙戦争』でもスピルバーグは本来そこにないものが存在してしまう歪な空間を用意しているし、ダニエル・シュミットの『デ・ジャ・ヴュ』(1987年)では、中世風のセットの中に現代人の主人公がシームレスに迷い込む。それは、時代劇の撮影セットに撮影スタッフのTシャツやスニーカーが映り込んでしまうような世界観を崩壊させる歪さが紛れている。『エターナルサンシャイン』(ミシェル・ゴンドリー監督、2004年)では、消されようとする元恋人にまつわる記憶の中で、彼の記憶の中で彼は彼女を自分の子どもの頃の思い出に避難させようとする。大人になってから出会ったはずの恋人が子どもの頃の思い出に登場して偽物の記憶、夢のような記憶のノイズがつくられる。
本来そこにないはずのものがそこにある。映画の演出によって用意されたありえないはずの現実の最も顕著な例の一つがタイムトラベルだろう。自分と同い年の母親と並ぶ主人公、恐竜の例と同様に歴史上の人物と肩を並べる主人公。『バックトゥザ・フューチャー』(1987年〜)や『フォレスト・ガンプ 一期一会』(1994年)のロバートゼメキスはこの演出を最も好んでよく使う映画作家の一人と言えるはずだ。
そしてなによりも、本来並ぶはずのないものが並ぶ画面の最も具体的な例が、『寝ても覚めても』(2018年)や『複製された男』(2014年)のような、同じ二人の人間の顔が一つの画面に並ぶことである。同じ顔の人物が二人いることはなぜこんなに見る者に驚きを与えるのだろう。ここではこうした思索の一つの終着点として、顔というのが記号でありつつ身体であることに由来すると述べておきたい。顔とは文字で表すことの不可能な、その人がその人であることを示す抜き差しし難い身体の一部であると同時に、まさに同時にその人がその人であることを確かめるための符牒なのだ。それはそのようにして、固有名詞に最も近い身体の特徴なのだ。顔というものに向かって、身体が「読める」もの、文章や文字のようなものに接近するとき、身体と言葉の関係がその対立と和解を巡って最も緊張する。映画はこうしていつも、身体と言葉との不安定な関係の上に成り立つ。

・顔と文脈の関係なさのこと

ヒッチコックの『めまい』や、デヴィッド・リンチ『マルホランド・ドライブ』が魅力的な映画なののは、この顔と言葉をめぐるサスペンスの反転、というか実質の応用編によるものに思われる。『めまい』では、刑事がそれまで別人のふりしていた女の正体を知るとき、『マルホランド・ドライブ』ではどちらが夢、どちらが現実、と明かされない二つの世界に登場する同じ俳優を見る時、「同じ顔の人間が別の人物として扱われる」ことに私たちははらはらする。文字通りその、身体(顔)とそれをとりまく文脈の不安定さに「めまい」を覚える。こうして、身体をめぐる存在の時空間には言葉が意味を持つ根本的な理由がないことが明かされる。当たり前だが、私たちは言葉がないと生活ができない。言葉で約束された制約事項によって、社会の中で生きる自分自身を飼い慣らしている。なにより、こうして文章が読めない。誰かとコミュニケーションを取ることができない。
にもかかわらず、その人がなぜその名前で呼ばれ、その役割をあてがわれているのか、そうした私たちの家族から職場まで関係に関わるあらゆる問題が、身体と言葉をめぐる不安定な状況証拠にしか支えられていないのだ。つまり、私たちの顔や身体には、根本的に意味や理由がない。それがその名前で呼ばれる由来がないのだ。
それが私が考える、文章表現と映画との根本的な違いだ。イメージは言葉の外で存在と関係を持つことができる。しかし、言葉は言葉に自閉するより他ない。それが成り立つ、文章の外にある文脈と状況証拠的な関係しか持ち得ない。
トマス・ピンチョンの小説『競売ナンバー49の叫び』には、文脈と呼ぶべきものの礎について四つの提案がなされている。億万長者の元恋人の遺産整理を依頼された専業主婦エディパ・マーズは、歴史に隠されたトライステロと呼ばれる秘密組織の陰謀かに見えるものの「しるし」を至る所に見つけ出す。提案は何を信じればいいかわからなくなった彼女への診断である。

①陰謀は実在する
②これは亡くなった恋人の悪戯である
③彼女の頭は狂ってしまった
④すべては偶然の一致である。


意味というものが、小説の中で①から④に向けて、グラデーションを描き上げる。言葉だけで構成されたフィクションは基本的に、そこで書かれた言葉で(ただ「できる」。すべてそう「なっている」とは言っていない)

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