紫式部の頭の中を考えてみた・1〜桐壺の更衣のモデルは?〜
好評そうならシリーズ化しますし、好評じゃなくても筆者が楽しいのでシリーズ化します。
「源氏物語」を執筆したときに紫式部の脳内に何があったのか?ということに迫っていこうという企画です。筆者は歴史の専門家ではありませんが、大学の授業で学んだことや自分で調べたことをもとに考察していきたいと思います。
光源氏について書くのが筋かなとも思いましたが、ちょっとすごい文量になりそうなので、後に回します。
まずはすべての始まり、光源氏の母である桐壺の更衣から。
光源氏の父・桐壺帝のモデルは、諸説ありますが「延喜の治」で知られる醍醐天皇と言われています。
その時代には、女御が5人、更衣が19人仕えていたそうです。
もちろん代理(宮中)にはその女性たちだけではなく、彼女たちに仕える女官たちもおりましたので、数百人(最盛期には千人以上)の女性たちが住んでいました。
平安時代版大奥のようなものでしょうか。
この「女御」「更衣」とはなんなのかと言いますと、どちらも天皇に仕える位の高い女官のことで、実質的には天皇の妻(妃)です。
「女御」は、皇族や大臣家以上の家柄出身の女性が、「更衣」はそれに次ぐ家柄から出ました。
そして、天皇の実質的な正妻のことを「皇后(中宮)」といい、普通は女御から選ばれました。
では、桐壺更衣のモデルは誰なのか?
公式(「桐壺」の巻本文)によれば、「桐壺帝による桐壺の更衣への寵愛は、楊貴妃の例が引かれるほどだった」とあるので、楊貴妃でしょう。
Q.E.D!
といきたいところですが、よくよく見てみると、楊貴妃と桐壺の更衣にはいくつかの相違点が認められます。
1.身分
楊貴妃の身分はその名の通り「貴妃」。
これは、皇后に次ぐ2番目の位です。
楊貴妃が生きていた当時、皇后の座は空白。
つまり貴妃が実質的トップというわけです。
となると、目に余るところがあるとはいえ、楊貴妃の身内までを贔屓したことが問題なのであって、楊貴妃を寵愛すること自体はそこまで悪ではないのでは?
(楊貴妃は玄宗の息子の嫁だったのを略奪したので、それは問題大アリですが…)
桐壺の更衣への寵愛がそこまで反感を買ったのにはいくつか理由があります。
一つは、やはり身分。
先ほど、「更衣は女御に次ぐ家柄から出る」と書きましたね。
基本的に天皇は、女御を丁重に扱わなければならないのです。
平安時代は「双系制」つまり、父親の血筋も母方の血筋も両方重要視されます。
天皇の子供ということは、すなわち皇位継承者となる可能性があるということ。
そうなったとき、母親の実家が弱いと不安です。
なぜなら、何かあった時に他の公卿たちを丸め込むことができず、権力闘争の元になりうるからです。
言葉を選ばずに言えば、帝の愛情は私事にとどまらず国の行く末をも左右する事柄だったわけです。
そのため、より家柄の良い「女御」を大切にする必要がありました。
しかし桐壺帝はその事情を無視(?)し、桐壺の更衣に尋常ではない愛情を注いだ。
貴族たちが心配するのも宜なるかな。
2.子ども
桐壺の更衣は皇子の母ですが、楊貴妃と玄宗皇帝の間には子どもがいないのです。
この点も少し違いますね。まあでも、誤差の範囲と言えばそうかもしれません。
3.いじめ
楊貴妃にも妃とのいざこざエピソードはあります。
ただそれは正式な文書に記されているものではなく挿話の一つです。
皇帝からのあまりの寵愛を揶揄されたことはあっても、表立って「いじめられた」ということはなかったと記憶しています。
一方桐壺の更衣のいじめられっぷりはすごいものです。
帝の部屋へと続く通路に汚物を撒き散らされたり、通せんぼをされたり。
「私の方が身分が高いのに、どうしてあの人が!」という妬みも怒りも渦巻いていたことでしょう。
真のモデルは?
これらを見ていくと、楊貴妃以外のもう一人のモデルが浮かび上がってくるのです。
藤原定子。
「光る君へ」にも登場し、高畑充希さんが可愛らしくチャーミングに演じていらっしゃいます。
美しく知的で、茶目っ気もある女神のような定子は、清少納言の生涯の「推し」でした。
しかし、貴族たちからの人望は薄かった。理由は二つあります。
まず、定子が中宮(一条天皇の正妻ポジション)に立てられたときに、既に「一帝三后(一人の帝には、太皇太后、皇太后、皇后しか立てられないというルール。天皇が退位しても、后は退位しなかった)」が埋まっており、
定子の父・道隆が、皇后の別称である「中宮」を新ポストとして独立させて新しく「一帝四后」を創設したのでした。
貴族たちが嫌う「先例破り」をしてしまったのです。
これに反発したのは、何も道隆の政敵ばかりではありません。
なんと、弟の道長までが定子立后の儀に欠席したそう。しかし皮肉なことに、これによって道長の人望は高まったのでした。うーん…定子さま推しとしては複雑。
さらに、兼家の喪中でした。貴族たちが眉をひそめる姿が目に見えるようです。
立后された経緯はごり押しだったものの、一条天皇とは極めて仲睦まじく(「失礼だな、純愛だよ」)貴族たちはあまりの寵愛ぶりに娘を入内させることをためらうほどでした。
定子のもとには清少納言をはじめ才気あふれる女性(時々男性も)が集まり、華やかなサロンが形成されます。
まさに我が世の春を謳歌していた道隆一家。
しかし、995年に父・藤原道隆が急死してしまいます。
実は、桐壺の更衣も父親である大納言が既に故人という設定です(更衣の場合は入内前に既に亡くなっていました)。
父の死後、定子の人生は急落していきます。
まず、翌年の996年1月。
兄の伊周がやらかします。原因となったのは、伊周の女性関係でした。
伊周はある女性のもとに通っていたのですが、その女性のもとに別の男が通っているのではないかと疑い、その男に矢を射かけます。
しかしその相手の男はなんと…
花山院だったのです。これはアカン。
「花山院よ、あなたも出家したのに何をやっているんだよ」という話ですが、花山院が出家に追い込まれたのは19歳くらいの時なので…可哀想と言えば可哀想です。
出家したとはいえ、天皇経験者に矢を射かけるなど言語道断。
道長が謀略を企てるまでもなく、定子の兄弟たちは自滅。
罪人として捕えられてしまうのですが、兄と弟が引っ立てられたことに強くショックを受けた定子は、自らハサミをとって髪を切り落とし、出家してしまったのです。
このとき、定子は懐妊中でした。
兄弟たちの逮捕はかなり衝撃的だったでしょうが、「出家」というのは俗世間とのつながりを絶つに等しい行為でした。
その重さを考えて思いとどまっていたら、もしかしたらこの先批判を浴びることもなかった…かもしれません。
同年、母親・高階貴子も病死してしまったので、定子は天涯孤独のような気持ちだったことでしょう。
定子が出家したのちも、一条天皇からの愛情は変わりませんでした。
996年12月、定子は第一子となる脩子(ながこ)内親王を出産します。出家したままだったので貴族から批判的な目で見られました。
翌997年、詮子(一条天皇母)の病気平癒祈願のため、罪人の大赦が行われます。4月には、伊周と隆家も許されたのでした。
6月、定子と脩子内親王も宮中へと呼び戻されました。出家の身で宮中に戻ったことは当然非難の的となりました。
一条天皇からの愛情が深いとはいえ、出家した定子を正式な后としての居所に置くことはできず、職御曹司(中宮に関する事務を行う場所)に住まわせたのです。
苦渋の決断だったことでしょう。
一条天皇は密かに定子の元へと通い、999年に第一皇子・敦康親王が生まれます。
一条天皇は喜んだことでしょう。出家したとはいえ、正妻格の定子に皇子が生まれたわけですから、皇子を天皇にすれば定子は国母になれますから。
しかし、貴族たちの目は冷ややかでした。
藤原実資の「小右記」や、藤原道長「御堂関白記」にもほとんど記述がありません。
定子が敦康親王を生んだ日に、道長の娘である彰子が入内したというのもありましょうが(確信犯でしょうね)。
定子の身内以外では、出家したままでの懐妊・出産をよく思う貴族は…残念ながらいませんでした。
さらに定子は1000年に媄子(よしこ)内親王を出産します。しかし、このとき後産が降りず、そのまま息を引き取ってしまいました。享年24。
美貌にも知性にも恵まれた后の、あまりにも儚い最期でした。
定子の子どもたちは詮子や彰子に引き取られました。
その後、彰子には敦成親王が生まれます。
一条天皇は、最愛の后・定子が遺した皇子を東宮に据えたいと強く思っていたようです。
しかし後ろ盾もない上に道長を敵に回すわけにはいかず、泣く泣く断念。
后腹の第一皇子なのに天皇になれないのはかなり異例なことで、流石にこれに関しては同情的な見方が強かったとか。
桐壺の更衣が遺した光源氏を東宮にと考えながらも、それを諦め、争いの元とならないよう臣籍降下させた桐壺帝に重なるところがあるとは思いませんか?
表のモデルは楊貴妃で、裏のモデルが藤原定子と考えるならば、
一条天皇から定子への愛を、楊貴妃への寵愛(すなわち、傾国の愛)になぞらえていることになります。
身分に構わず一人の后を寵愛することの危険性を訴えているとも考えられませんか?
定子を忘れられない一条天皇への、遠回しな諫言だった…と考えるのは性悪過ぎるでしょうか。
辞世の歌
定子の辞世の歌と、桐壺更衣の辞世の歌を比較してみましょう。
まずは定子から。
知る人も なき別れ路に 今はとて 心細くも いそぎたつかな
(これから向かう別れの道=死出の旅路 には知っている人が少なく心細いですが、今は急いで旅立たなくてはなりません)
次に、桐壺更衣です。
限りとて 別るる道の 悲しきに いかまほしきは 命なりけり
(人の世に定められた別れの道を悲しく思います。私が行きたいのは、生きていく道ですのに)(「生く」と「行く」が掛詞になっています)
ドンピシャというわけではありませんが、「別れ道(路)」という言葉が共通していること、死出の旅が悲しい、心細いという心情が共通しているのではないでしょうか…?
定子の崩御を知った一条天皇は身も世もなく悲しみに暮れます。
最愛の后の面影を求めてか、定子の妹のもとに通います(この人も亡くなってしまいます)。
桐壺更衣の身代わりとして藤壺の宮を寵愛した桐壺帝を思い出しませんか?
最後に
源氏物語において、執拗なまでに描かれているのが「身代わりにされる女の苦しみ」「愛する人の心に違う人が棲みついているという悲しさ」でしょう。
桐壺更衣の身代わりとして、桐壺帝に入内した藤壺。
その藤壺に想いを寄せる光源氏は、絶対に結ばれることのない片思いを慰めるために、藤壺の姪にあたる紫の上を引き取って妻にします。
30年近く、光源氏の「一の人」として憧れの的となった紫の上。
しかしその栄華は、女三の宮の登場によって崩されます。
光源氏が女三の宮との結婚を断らなかったことから、紫の上は
「結局自分は安住の地を見つけることはできなかった。光の君の心を捉えて離さない別の人が居て、私はその身代わりだったのではないか」
と気づいてしまうのです。
美しく知的で、華やかだった定子の面影を上書きしなければならず、苦しんだ彰子。
その彰子に仕えた紫式部が「源氏物語」の題材の一つとして「身代わり」を描いたというのは…なんというか、ギリギリを攻めたなと驚きます。
純粋に物語としても楽しめるのですが、同時代に誰がいたのか、どのような出来事が起こったのかを知ると、二重三重にも味わい深くなります。
長文乱文、読んで下さってありがとうございました。
書いていてとっても楽しかったです!!
もしよろしければ、「スキ」やコメントをお願いいたします。
「私はこう思う!」というご意見も頂戴したく存じます。
参考:角川文庫「ビギナーズクラシックス 源氏物語」
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