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挨拶の大切さを教えるのが難しくなった現代社会は発達障害児を育むには厳しすぎる社会になったということだ。

こんばんは。
ずっと書こうと思って温めていたことをようやく書き綴ってみる。。

「あいさつ」は教えられない

「あいさつ」を教えるのことは難しいことだとずっと思っている。
そもそも「あいさつ」にはどんなものがあります?
「おはよう」「こんにちは」「さようなら」「いただきます」「ありがとう」などもあいさつだ。

「あいさつ」を教えるが難しいと思う理由は
「言葉」はそもそも「気持ち」を表すために用いるからだ。
それ故、発達障害の子が言語的な発達が遅れてしまう所以である。
複雑な感情を理解しづらし、その感情を表現するのはこれまた困難だ。

もとい、「感情」が先、その言葉の意味を先に理解しなければ
本質的な「あいさつ」の意味が分からず
もちろん、使いこなすことや
臨機応変に適切なタイミングで使うことができなのである。

その上、現代社会では人間関係が希薄になってきているので
そもそも「あいさつ」が必要ではなくなってきていて
子どもが「あいさつ」を使いこなすために必要な経験値が減少して
「あいさつ」を獲得できずに大きくなってしまうのだ。

学校のあいさつ運動の意味

学校の近くを通ることがある。
校門で先生が大きな声で生徒に「おはよう!」とか「おはようございます!」と声をかけている。
それを見て、最近思うのだ。
なんのために「あいさつ運動」なるものを今だ行っているのか?と。


私が育って随分前ならまだしも
今現在にそのようなものが必要であるのか?と感じることが多々ある。

本当に顔見知りで親しい関係性がある場合は、
自然とあいさつを交わす。
が、しかし知らない人には「あいさつ」などしない。
反対に「あいさつ」されたり、「声」をかけられても
無視することを教えられているのではないか?

たとえ、同じマンションであってもだ。
エレベーターであった時は
大人同士であれば、多少あいさつも交わすかもしれないが、
マンションの下で子どもたちが集団登校の為に集まっていても
私が彼らに投げかけた「あいさつ」に応じてもらったことはない。
それが、現代なのだと痛感し、悲しくなる。

東京へ出かけるようになった時に
友人から言われたことがある。
「誰彼話しかけたらあかんよ。
大阪と違って東京はどんな人がいるかわからないから・・・」と (笑)
今は、大阪であっても危険なのかもしれないけれど・・・。

こんな事が日常だから
子どもは身近で「あいさつ」している様子を垣間見る機会をどんどん奪われてしまっていくのだ。
必然的に適切なタイミングや状況において「あいさつ」をすることが出来なくなっていくのだ。
とっても大切な「ありがとう」と言う言葉でさえ。

一方、それとは違う場面に出会うことがある。
それは、趣味で時々行くトレッキング。
訪れた山付近のいわゆる「田舎」と言われる地域では
すれ違う私たちに小学生が声をかけてくれる。
下山して疲れ切った顔の私に
「お疲れ様~」
「さようなら」と。

私は子どもたちにこんな風に励ましてもらって
帰り道を何とか頑張れるのだ。


「あいさつ」とはこういうものなのだ。
都会ではなくなりつつあるこの「あいさつ」をどう教えるのだ?
学校の前だけ、知ってる人だけ。
そうなったら、「あいさつ」というものは無くなってしまうんじゃないのか。
「知り合い」の範囲はどこまでなんだ?

「こんにちは」は?と親に促されて「あいさつ」する時期は
幼少期、せいぜい低学年だろう。
けれど、それからが「あいさつ」の大切さを知る時期
「あいさつ」の本当の意味が分かる時期なのに。

顔を見てあいさつはできないけど
LINEやSNSではできる。

これからもそれでも良いのかもしれない。
そんな社会になっていくのかもしれない。


「あいさつ」を教えるのは難しい

「ありがとう」はどんな時に言うの?


そんな風に幼児に聞かれたことがある。

全ての場面を伝えることはできないし、
「感謝の気持ちを表したい時」って
これまた「感謝」ってどういうこと?となっていくのだな。

とにかく
今の社会は昔と違うのだ。
「教育」を見直して「大きく」変えないといけないんじゃないか?
と思うのだ。



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