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トランプの詫び状

『あぁ、またか』

ここ半年ほど、使うアテのないトランプを前にしては手放そうか手許に残そうか逡巡している。

眺める愉しみのためだけに

トランプは、カメラを購入した2年ほど前にわが家にやってきた。購入したカメラの充電器が作動せず、カメラのバッテリーが充電できなかったのだ。点かないカメラはしばらく棚にひっそりと仕舞われていた。

幸いあたらしい充電器をすぐに発送してもらい、そのときにお詫びの品として同封されていたのがこのトランプである。
箱にはカメラの絵が描いてあり、トランプで遊ぶことなど滅多にないがどこか特別な感じがして、封も切らずカメラのそばに置いて時折手にとっては眺めて楽しんでいた。

モノにも”捨て時”がある

年が明けてから、カメラを仕舞っている棚がどうにも煩(うるさ)い。子どもの物が増えてわたしの場所を侵食してきているだけではない。わたしの物が明らかに多いのだ。
煩いのが気に障るときは持ちもの点検の時機がきている。

捨てたくないと思っていたものを、今なら捨てられるのではないか

棚には家族の物もあるが、そこには手をふれない。目もやらない。
家族の持ちものに「これ、もういらんのに。」を言い出すとキリがない。捨てる決定権があるのは自分の物だけ

ふと、数年前のノートが何冊も並んでいるのに目がいった。当時の出来事や芽生えた感情を忘れたくなくて残したままのノートが5冊以上ある。
写真もそうだけれど、いわゆる想い出の品は中身を開いたら最後、捨てられない。ふと開いた頁に胸ぐらをつかまれるようなひと言を見つけてしまったら、ノートを捨てる決心が揺らいでしまう。

心を鬼にしてちらとめくる程度にとどめ、ノートをゴミ袋にぼんぼん放り込んでいく。ゴミ袋越しにノートを見て、もっと淋しい気持ちになるかと思ったが後生大事にしてきたことからようやく解き放たれた気がして晴れ晴れした。
ノートの入ったゴミ袋はずっしり重い。これほどの重みを家にかけていたなんて。

これならトランプも捨てられる

ノートを捨てた勢いでトランプも手放す決心がついた。
1年以上手許においたのだから所有する経験は充分に叶えたというもの。

「子どもがいつか遊ぶようになるかもしれない」とどこかで思っていたが、子どもがこのトランプを気に入るとはかぎらない。自分の好きなキャラクターのものを欲しがるかもしれない。
「いつか」はそもそも来ない。

トランプの詫び状

私はカメラの絵が描いてあるという物珍しさと同時に、トランプを詫び状として大事に仕舞っておいたのだと思う。トランプを取っておけば「買った充電器がはじめから壊れていた」というちょっとヘンテコな出来事をいつでも思い出せる。
その思い出トランプを私はどうしても手放せずにいた。

でもそれもおしまい。

思い出の数珠

といってもトランプにまつわる記憶が何ひとつないのもさびしかったので、最後に一日だけ鞄に入れて出かけた。

病院に行った帰りに寄ったカフェで、ほかにお客さんもいなかったので記念に写真を撮る。撮ってから、注文したラムレーズン入りのクリームをはさんだクッキーと珈琲を口に入れた。クッキーは思ったよりずっと冷えており、温かい飲みものを口にふくむとほろほろとくずれていった。

今度はそのカフェに行くたび、おなじ席につくたびにカメラを構えたことを思い出すのだろう。カメラにまつわる物がひとつ喪われ、トランプにまつわる場所がひとつ増える。

こうして思い出は点から線になってゆく。

トランプ箱の裏面

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