見出し画像

「群盲象を評す」見る事と聞く事についての物語

ご訪問ありがとうございます。
私たちMaorisは、発達に課題がある子ども達を育てる大人のためのオンライングループを運営しています。神経可塑性を専門に研究されている米国理学療法学ドクターを顧問に迎え、国内外の先生から自宅で遊びながらできる発達促進法を学んでいます。

「我が子がチャレンジドであるということ」。
この現実をとらわれない目で広く深く見られるようにと哲学担当の講師が、メンバー宛にしたためた記事を今日は特別に無料公開いたします!
皆さんはどう感じますか?


目が不自由な人が初めて象に出会う

今や世界中で知られるようになったインドの昔話があります。目が不自由な人たちが初めて象に出会ったときのお話です。 
目が不自由な人たちは、象の身体のそれぞれ違った部分に触れました。 鼻、しっぽ、牙、耳、などなど。そして自分が触ったところの感じから、これが一体どのような動物なのかを想像しました。 そのあと、みんなで座って昼食をとりながら、自分がどう感じたのかを話し合いだすと、すぐさま言い争いになってしまったのです。 鼻を触った男は「象はまるでホースのようだ」と言い、尻尾しか触っていない別の男は「象はロープのように長い」と言う。そして、耳を触った3番目の男は「いやいや、象は大きなうちわのようだ」と主張し、牙を触った4番目の男は「象は剣のような生き物だった」と言いました。 それから一日中ずっとみんなでああだ、こうだと言い合いましたが、結局話がまとまることはありませんでした。自分が触れた場所によって、象の異なる描写をそれぞれがてんでばらばらに表現したからです。 

滑稽な言い争いの理由

では、この話は何を言わんとしているのでしょう。この昔話から何を学ぶことができるのでしょうか。 まず、これは当然、目が不自由な人についての内容ではありません。人間全体について語られている昔話です。 私たち人間が物事をどのように見て、いかに個人的な経験に基づいて結論を出すか、ということについての例え話になっています。この話の中で、登場人物が直面した限界とは、実際のところ目が不自由なことなのではなく、自分の考え方より他の見方をしないことにあるのです。 この話に登場する目が不自由な人たちは、誰もが簡単に象のまわりを歩いたり、背中によじ登ることだって出来ました。そうすれば、象の形や大きさなどを確かめることができ、象がどのような生き物なのか、もっと理解できた事でしょう。そして同じように、昼食の時間を、自由に意見を交わして過ごすことができたと思うのです。自分の意見だけを主張するのではなく、このようなやり方であれば、象への理解がもっと深まったと思われます。 この話の中で誰一人として全体像を把握するものがいなかったこと、これが男たちが象について滑稽な言い争いをしてしまった理由です。

人は自分の見方に固執してしまう

私たちの人生で発生するとても重要な問題事項に対しても、これと同じことがあてはまるのではないでしょうか。 自分の人生の全体像を完全に把握する人など存在しません。 人はついつい自分の見方で物事を見てしまうようです。 しっぽを見るのがとても得意な人がいれば、鼻を中心に見たい人がいて、そして耳にしか興味がない人もいます。 どうやって子どもを育てていこうか、どうすれば社会が平和で思いやりにあふれたものになるのか、どうすれば年を重ねながらも成長と学びを維持し続けることができるのか。このように、人生で大きな挑戦に挑むときに、自分の力で象全体を見られる人などいないのです。 哲学者はこのQOL(生命の質)を、人間の特徴だと考えます。物の見方には色々あるために、ある見方に固執してしまうと自分を見失いやすくなります

人生の重大事項をどう決定するのか

しかし、象全体を見ることができる人がいない場合、どの方法で人生の重大事項を決定するのがベストなのでしょうか。どちらの道を行くべきか、どのように知ればいいのでしょうか。 簡単な答えがあれば、世の人々を導くために、人生に立ち向かうための新たな秘訣を論じる哲学者など、歴史を通してこれほど多く存在しなかったことでしょうし、この昔話もなかったでしょう! 
ここで少しの間、われらの象の話に立ち戻って、他に私たちに伝えたいことがないか考えてみたいと思います。話に登場する男は、象を把握するための重要なポイントを実際にいくつか見逃しています。あらゆる角度や位置から動物を観察しなかったことに加え、象に関わる時間をもとうとしませんでした。 象にえさを与えたり、話しかけたり、あるいは、象がどんな反応をするかといった点に気を配る者もいませんでした。象に対してとても一方的だったのです。 象が何を伝えようとしているのか、そして何を表現したいのか、象にもっと耳を傾ける事が、象を把握する事だとわかっていません。さらに言えば、象に耳を傾けていないという事が、男たちが互いの話を聞けていないことを物語っているわけなのです。 なぜならば、男たちは「世界に耳を傾ける」という事をまだわかっていないからです。今はまだ「世界に耳を傾ける」とは、変わった表現のように聞こえるかもしれません。 本質的には、まさに今、目の前で起こっていることに気を配るということを意味しています。 話の中で男たちが象を調べた時、自分の過去の経験からでしか考えませんでした象はホースのようだ、ロープだ、剣だ、うちわだと。 自ら新しい経験を積み、新しい見方で物事を見ることができなかったのです。「周りと比べること」でしか世界を見ることができないという落とし穴にはまってしまったが故に「見えていない」のです。 新しい経験を積み、世界や自分や他人について真に学ぶためには、自分が知っていると思うことを停止する必要があります。何かに名前を付けるだけでは、理解に至らないからです。 真の理解とは、物事への名称ではなく、経験して驚いてみたり、そういった経験からの学びを理解する力からもたらされています。 真の理解とは、耳を傾ける、つまりは聞くという芸術から生まれるのです。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?