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ひとは弱いので、知性で生きのびなきゃいけない。

春学期の授業がすべてオンラインになって、大学寮に住んでいる学生にも退居勧告が出た。わたしは実家に戻ることにした。親類がアメリカにいる友達は、福岡にある家に行くというが、そこで独り暮らしをするらしい。近くに友達はおらず、言葉も通じない環境は、さぞや不安だとおもう。わたしも仲間と散り散りになる。疎開、ということばがちらついた。

正門から続く一本道に満開のさくらはせつないけれど、しかし、自然は平等だね、とおもうと心強いような気もする。
ウイルスもまた自然。ウイルスの側に作為があるわけではないし、もし頭を働かせるならば、人間の方が優勢なんだとはおもう。

ある活動がキャンセルになった時に言われた "But have to admit that we human beings are weak creature(でも我々人間が、弱い生きものであるということを認めなくてはなりませんね)" ということばは印象的だった。
わたしたちは弱い。免疫のないウイルスにどんどん感染して死んでしまうことも、目に見えない敵に想像力で立ち向かえないところも、「念のため」を肯定し、「やりすぎだったかもね笑」に変わるまでの余裕を持つことができないところも。

感染症が流行しだした頃、欧米ではアジア人が差別の対象になった。NYでは街の治安が急激に悪化しているという。日本では批判合戦がヒートアップしているし、「リスク」の認識をめぐって分断が生じつつある(このへんは、震災の時とおなじ)。『遅いインターネット』を出した宇野常寛さんは、編集者・佐渡島傭平さんのyoutubeチャンネル「いま叩いていいもの・ターゲットにしていい生贄が現れると、みんながそれに向かって石を投げる、でクリティカルヒットした奴がたくさん座布団をもらえる、いじめの大喜利」みたいな社会からいい加減脱出すべき、ということを言っている。大いに共感する。そういう大喜利に喜んで乗るひとが悪いというよりは、もう放っておいたらそうなってしまう、人間の自然なのかもしれない。だから、意識して、頭を使って、その風潮から抜け出さなきゃいけない。
わたしたちはどうしようもなく弱い。しかし弱くあるかわりに与えられたものはなにか、ということを、まじめに考えなくてはならないと思う。

備えることと、備えの重要性・ありがたみを実感することはトレードオフの関係にあるから厄介だ。備えて事なきを得て「損した」と感ずるか、備えないで「手遅れだ、あのときこうしていれば」と感ずるか。未来に光源をとるのはとてつもなく難しい。でもその難しさ、もどかしさ、葛藤、を多くのひとの間で共有することができて、その点ではよかったとおもっている。今後の「備え」のありかたは、震災のとき以上に変わっていくのではないかと、そんな予感がしている。

未来に光源をとることは、「知性と想像」によってのみ可能である

知性と想像は何にでも使える。人として賢くなるためにも、しぶとく生き抜くためにも、幸いな生活をたぐり寄せるにも、そして人を騙すにも、私腹を肥やすにも(鷲田清一『濃霧の中の方向感覚』晶文社、2019年)

と哲学者は言う。枕詞でもレトリックでもなく、文字通り先行きの見えない時代に、この社会の岐路に、必要なのは「知性と想像」だ。王道だけれども、言わずにはいられない。その源泉となるべきはやはり大学だろうか。とすれば、教育もまた、岐路に立たされている。

いまある社会の秩序の内部で勝ち抜くために、あるいはそこから落ち零れないように、先生から、親から、「しっかり勉強せよ」と言われる。しかし、学びの射程は本来、それよりはるかに長いものであるはずだ。人類の歴史な国家の歴史よりもはるかに古いからだ。
戦争や原発事故は、いまある社会の秩序がいつでも崩れうることを教える。ひとがいつ難民となるやもしれないと教える。そんな時にあってもしかと生き延びてゆくために、わたしたちが身につけておかねばならない能力とは何か。そこから学びということを考えなおす時期に、いまわたしたちはあるとおもう。いまある社会の秩序のなかでうまく立ち回れるよう学校や親が敷いたレールの上を走る、ということではすまないのである(前掲書)

危機はきっと今後も訪れる。そのときにじぶん自身がどう生きるのか、どんな視座から、どういうことばを持つのか。必要な力をもつために、なにを軸に学ぶか。どこに身を置くのか。ふたたび鷲田さんの箴言。

国家の、文明の存亡の危機にあっても、人びとはそれらをどうにかくぐり抜け、命をつないできた。
そういう流動性のなかで、人びとが生き存えるための知恵を育み、蓄えるために、ふだんは自らの生業に集中せざるをえない市井の人たちになり代わって、法外な時間と集中を要する歴史の研究、自然の研究に勤しむ。社会が困窮の極みにあるときも、その渦中で困窮の理由を質しつづける。そういう探究の仕事を大学人は委託されてきたはずである。
時代に密着せずに、それから十分な距離をとって、時代を見るさまざまの、ふだんは思いもよらないような視点を用意しておくこと。時代が岐路に、袋小路にさしかかったとき、そういう別の可能性を描きだしてくれる視点があるかないかは、社会にとって死活のことである(前掲書)

いまはたしかに、思い描いていたプランが台無しになったり、将来の見通しがたたなかったりして、暗い気持ちになってしまう。それはもうどうしようもなく、そのなかで出来ることを模索するしかない。が、「いま」に縛り付けられることなく、異なる時間軸を同時にもって、どっしりと構えていたいとおもう。(とはいえ、守るべき何ものも持たないわたしがこんなことを言うのは、相当恥ずかしい。。)

こんなときこそ、社会問題に向き合いませんか。

もう一点、こんなときだからこそ、いつも以上に、社会的に弱い立場にあるひとや、経済的にのっぴきならない状態まで追い詰められているひと、を前提にして諸々の発言を読んだり聞いたり考えたり、政府の打ち手を吟味したりしたい。危機のときには、いつも集団の中の弱いものにしわ寄せがいく。

社会問題とは、というフレーズには何パターンもの続きが考えられるけれど、「そこにあるのに、見えていないもの、あるいは意識的に無視されてきたもの」ということができる。無視しているのは、そのイシューにおいて「損害の及ばないマジョリティ」に埋没した個人だ。あるいは、日本社会に形成されてきた習慣や制度、それを貫く思想だ。でもいまは、人類がもうコロナ危機の「当事者」である。「知性と想像」が一歩、前に進む時なのかもしれない。

(※社会問題考えたいな、と思った方はリディラバ代表安部さんが今日から配信する勉強会「リディズバ」をぜひ聞きにきてほしいと思います。毎晩19時から。いつもみたいに(?)難しい話だけじゃなくって、「社会問題とか時事ニュースやその背景にある政治やテクノロジー」も解きほぐして解説してくれるみたい!!わくわく!!以下に安部さんのfb投稿と、チームのボス・大尊敬するいつかさんのアツい紹介文を貼っておきますねっ)

明日(というか今日か)から、毎日毎晩!社会問題のオンライン勉強会をやります!コロナウイルスの感染が蔓延し、私たちは皆が多かれ少なかれ、この問題の「当事者」となりました。
私たちリディラバが、「社会の無関心を打破する」と吠えてきたことの裏側には、「誰だって、社会問題の当事者になり得る」という大前提があります。
「社会問題」は、「特定の誰かの問題」じゃなく、「社会そのものが生み出している問題」である。私たちみんなの問題だ、と。
こうして全員が、ハッキリと意識して社会問題の当事者になった。
今こそ、考えましょう。社会問題のこと。どうしたら、社会の無関心を、自分自身の無関心を変えていけるのかを。
この危機に直面する前と、今とでは、「社会」への向き合い方、考え方に、何かしら変化があるはずです。
自分の中の変化を抱きしめて、前に進みましょう。
乞うご期待を!

貧困、格差をはじめとする種々の社会問題は、いわば癒えない社会の「持病」としてずっと存在してきた。持病を持っている人間は、コロナに感染すると、致死率が高いという。日本社会は、来る「ポストコロナ」の時代も含めて、生きのこることができるのだろうか。

*不定期更新* 【最近よかったこと】東京03単独公演「ヤな覚悟」さいこうでした。オタク万歳