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あれ。

誰にも迷惑をかけず(それは長期的に見れば難しいけれど)、

誰にも余計な負担をかけず(それは努力で少しは改善する)、

過ごせれば良いんでしょうけれど。

目立とうとしない限り、目立たずに埋もれていく気がするため、

目立とうとしてしまうところもある。

自分が何かを発想しようとしたとき、

その発想が頭おかしい と思われたとしても

埋もれてしまうよりかは

上等だと思う。

というか これまで6000記事くらいは投稿しているから

記事が残っていくことに対する恐怖はない。

だから、リアルでもネットでも

なんとなくで言葉を言うから

(一応、感覚的に 基準は設けているけれど)

図太さを発揮しないといけないこともある。

(たぶん冷静に生きても、図太さを発揮しなければいけない

瞬間というのは 多くあると思うため、

何かがズレているキャラにして

図太さを決め込んだ方が 楽で そうしている)

完全に目立とうとする気持ちなく、生きることが選べない。

ワンピースのフランキーや

ハイキューの田中

並の バカさ でもいいや と思えるくらい。

フランキーほど 強くはないし パンツ一丁には(当然)ならないし、

(そういうキャラじゃないからな 比喩なので)

田中 ほど運動神経も良くないし 成績も別に悪い方じゃなかったけれど、

なんか両方 心に来るものがあって。

フランキーも田中もバカだなー

って見下して 冷静に生きるということが選べない。

バカを見下した方が冷静になれると 私は思うのだけれど

(その時点で言葉のナイフかもしれない)、

仮に以前、持っていたそういう気持ちを 見下す 気持ちだとするなら

その時の熱量で そういう気持ちを持ちたくはないんだよな。

バカに同調すると、自分も結果、バカになるものだけれど。

今書いた内容を踏まえると、バカに同調するのも

美しい価値観だと思う。

(ドラえもん の のび太 は バカに同調を促しているように思う。
言葉のナイフ2回目)

差別と区別は違う、というのが良識なのはわかる。

しかし、バカを見下した方が 冷静になれる という感覚も

昔から感じていたことも なかったことにできない。

見下すとかじゃないなら、その反対は適度に同調することなんじゃないか❓

と私は思う。

差別ではなく 区別をするのが良識です という人間も

結局 内心では バカは頼りにならない と線引きしていると

私は思うんだ。

確かに 頼りにならないバカもいるのかもしれないけれど、

口で 区別と話したとしても 内心では 立場を下に見ているんじゃないかなー、

と しつこく考える。

政治とか 経済とか について考えるのが得意じゃない分、

何か細かく深く 考えられないかな、と思ったら

こういう文章を書くことになった。

エッセイであって、他のなんだとも言えない。

私は、いい意味で世界中のバカに 適度に同調して生きる人生でも良いと思う。

(まあ、同調しない時もあるかもしれないけれど)

適度に同調して生きることに決めているから、

自分もバカな態度を取ることもある。

むしろ、自分がバカな態度を取れば、

相手からバカだと見下され、相手は冷静になれるかもしれない。

(そういう自説を持っている)

でも、安易に相手をバカだと見下す人間は、

それゆえに躓くこともあるように思う。

バカに対して、見下す気持ちを持ったこともある 性格が悪いところもあった

私だけれど、安易に相手を見下すことは

結果自分を壊していくことになってしまう

と分かっているんだ。

だから、適度にバカに同調することも、

美しい価値観の内のひとつだと思っていて、

だから、自分も(許される程度に)バカな態度を取ることもある。

(お笑い芸人とかは バカな態度を取ることで 笑いをとって

お金をもらっているのだから それだけではないだろうけれど、

一般人が 箸休めに バカな態度を取ることそのものは

許される程度、範囲であれば 咎められることでもない気がする)

今日のこの記事も、ナイフのような言葉も入っているようで

許される程度・範囲のバカなことを書いている、と思っている。

毎日そのような考えだ。

ナイフのような言葉も言うようで、

それも許される程度・範囲のバカな行動 に収める気持ちだ。

それが本当に 許される行動なのか どうかは

相手が決めることで 大体 いつも通る。

だから たぶん 今回も通る。


楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈