心のノイズを調節する力。
考えなしに他の人の動画を視聴していると、
心のノイズが増える。
先ほど、ゲーム実況者の動画を視聴していた。
普段、ゲーム実況者の動画は見ないが、
ふと、ゲーム実況の面白いポイントはなんだろうって思って
🔎ゲーム実況 面白いポイント
と検索した。
結果、伸びないゲーム実況者がやっていることを挙げていく動画などが
検索上位に表示された。
それで、今、心にノイズ(雑音、雑味)が感じられる。
本来、私にとっては不必要と決めていた内容を見たからだ。
しかし、成長や上達のためには、不必要な情報を得ることも大事だと思う。
自分にとって必要な情報だけを得ていたら、
思考力の弱い人になる、と思う。
一応、必要ないと感じる情報は、得ない、
という選択をすることは出来るんだけれど、
テレビやネットでニュースを見たり、することは、
個人的には面白いと思えないけれど、
社会人として社会についていくには必要なことだ、
と思うようなこと。
と言っても、テレビやネットでニュースを見ないけれど。
見ることは価値があることだと思う。
しかし、面白くないと思うけれど。
学校の勉強も、心のノイズに感じたこともある。
しかし、これもニュースと同じで、
面白くはないけれど、学ぶ価値はあると考えている。
仮に学校の勉強が、クリアー(非ノイズ)で、
サブカルが、ノイズだという考えが強かったら、
もう少し、学校の勉強を頑張っただろうか。
私は学校の勉強よりも、サブカルの味方をした。
それも自然なことだと思うため、自責することはない。
学校の授業というのは、本当に色々な学びのチャンスを生徒に与える。
国語、数学、理科、社会、歴史、保健体育、体育、家庭科、などなど。
これだけたくさんあるから、受動的な姿勢に特化していないと
こなせなかった、と個人的には思う。
学校を全体的に肯定しないといけないような、という気持ちに駆り立てられ、
イエスマンにありそうな葛藤で、苦しんだこともあった。
学校に居た時の自分は全部、嘘だったと、今なら言ってしまえる。
学校という場所は、どうしてこう意味もなく人の心を縛るのか?
学生ではなくなり、就労訓練を経て、社会人になり、
学生時代に感じていた、気持ちは感じなくなった。
障害があることは遥か昔から分かっていたので、
障害者雇用(一般就職)で就職できたのは、
あるべき未来に辿り着いた気がする。
無理して、クローズド(障害を隠して、健常者のふりをして就職すること)で
就職したならば、自分の運命に歯向かう、葛藤に毎日、悩ませられるだろう、
と考えている。
クローズドで就職する気は、一切、今も持っていない。
私は自分の意見を持っている。
クローズドで就職する人を否定することはしないけれど、
障害をオープンにして就職する側と、
クローズドで就職する側とで
仮に分かれるとしたら、オープンにして就職する側に加担するということだ。
もちろん、仮に勢力争いがあったなら(ないだろうけれど)、
オープンにして就職する側に、徹底的に助力するということだ。
挑戦することが多すぎても、ノイズが増えるだけ。
ノイズが多いと、受動的な原動力で始めないと、
こなせなかった、という自身の経験もある。
と言っても、行うことを絞りすぎても、人生は面白くない。
ただ効率的、合理的に、オペレーション(実行)することを醍醐味にしたら、
動いていない間、数字が回らない間、失敗から次の成功を模索する間、
空白的で、面白くない。
心のノイズを最小にして、効率的、合理的にオペレーションすることが
基本好きだけれど(そう言える余裕があるのは環境によるものも大きい)、
先ほど3つ挙げた「間」の時に、柔軟に待つために、
効率や合理にこだわらない世界線の自分が喜びそうなことで、
自分を満たすことも大事だと思う。
その時、刺激という名のノイズを、自然に求めるから、
少しはノイズが欲しい時もある。
しかし、価値観が変えられるほどに量が多い刺激は、
洗脳のようなものだと考えている、ため、
量が多い刺激には、常に警戒することをデフォルトとしている。
さて、こうして書いている私も、
世界や社会に、何かしらの刷り込みをされてきたことは確かだ。
どのようなことが刷り込まれたか、よく考えて、
真の自分の声に辿り着くことができたのは非常に幸運だ。
楽しくて得られるものが多いクリエイターになります⭐️⭐️🗼🔮🌈