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『(自由)気まま』なユートピアについて改めて

この記事は宮島さんの、
プログラミング教育の行き着く先が、仕事とか勉強とか社会貢献みたいな意識高いことだけでしか語られないことの物悲しさについて考えたい。
という記事への言及記事である。
2000年代のインターネッツで言う所の『トラックバック』である。

また、各所にテレビゲームなどのセリフを引用している。
「何をお前はゲームまでのフィクションのセリフにマジになってんの?」
と嘲笑しがちな読者には、読んでも楽しくないエッセイである事は容易に想像できるので、
「フィクションのセリフにマジになる事がバカバカしいと思う読者」
の貴重な時間を奪ってまで読んで欲しいエッセイではない事はここに明記させて頂く。

「くそ長い。はよ言え」な方向けな三行半

  • 創作行為は表現である

  • 表現の対象には自分自身も含まれている

  • 表現の理屈が判らなくても用いれるのがパソコンの良さだし、プログラミングもそういう気ままな表現媒体になってほしい。

前座

私個人のユートピアについては、『Crieit』というWebサービスでごろごろ駄文を挙げているし、今回もほぼ同じ内容を言葉を替えて語るだけである;

そして自分の捉え方では、10年近く仲良くして頂いている西原さんの、
完成度 1 % 未満の LT を見せつける会というバタフライエフェクトの具現化(?)
は、『(自由)気まま』なユートピアの実例として挙げれる。

本題:私の描くユートピア

ジミーとベスが相互接続したDynabookで遊ぶ様子 1972年、Alan Kay, A Personal Computer for Children of All Ages [picture of two kids sitting in the grass with Dynabooks] ©Alan Kay

私が思い描くのはまさに、上記の画像のキャプションにも書いてある様な、
アラン・ケイの『ダイナブック』構想
同然である。せっかくなので「有志によるアラン・ケイ自身の文書の翻訳」も一読して頂けると幸いである。

さて。こういう話を展開すると大抵の「人間、ましてや子どもは……な存在であるべきだ
という主張によって掻き消されてしまう:

  • 子どもは、はらっぱで元気良く駆け周るべきだ

  • 人間は、汗水流して社会に貢献するべきだ

結構、結構。私はこれらの主張も否定や無碍にはしない様に善処しているつもりであるし、むしろ「31歳になっても(その時だけでも)元気駆け周る身体の維持」や「汗水流して社会に貢献する」様に、がむしゃらではあるが日々学ぼうとしている。

そう……31歳になって学び直している。

いくつかフィクションのセリフにマジになってる引用

ガンズ・エンプレス「……人間とは何なのか、知りたかったから。」
セイヴィアー「意味がわからん。貴様が人間ではないような言い様だな。」
ガンズ・エンプレス「あなたの言う通りよ。私は人間になりたかった。そのために人間がたどってきた歴史を知りたかった。」

テレビ・PCゲーム『デモンエクスマキナ』のオファーオーダー『大規模イモータル拠点破壊作戦』のブリーフィング内容より(ver.1.4.2)

ハイスピードロボットアクションゲーム『デモンエクスマキナ』の内容詳細は購入して頂きたい次第である。もしかすると調べればすぐにネタバレが見れるとは存ずるが。

私個人は非常に不愉快なのであるが、
「他者の感情や思考を知って、共感できる様になろう」
と、オツムの性能が健常者に対して無いくせに知識を飽食してきた節がある。

加えて、知識を集めれば集めるほど、人間というものが解せなくなっている今日この頃である。

それまで過ごした『富や権力や暴力を用いたパワーゲーム』の環境に順応できなかったのもあるし、順応しようとして得た知識は大衆の求めていたものと比較すると、かなり偏っているとは自負する。

『私にとってクソ面倒臭い人々』

「人間が解せない? 考えるなよ。感じられるだろフツー」
と、頭の中で私にとってクソ面倒臭い読者がモノを申したが、
「それができたら、
『31歳になってもなお安定した就労ができないどころか、就労移行支援を拝受する無様で歳だけを食ったガキ』
になんてなってないんだな」
と皮肉を返す次第である。

色々と頭の中の『私にとってクソ面倒臭い読者』が、このエッセイを書いている今でさえ揶揄しているのではある。
「なぜか?」
と問われれば、これが私なりの精いっぱいの、
「『私にとってクソ面倒臭い人々』に共感する為の処世術」
なのだと、結果論や詭弁を承知で記す。

『私にとってクソ面倒臭い人々』の素晴しくて恐しいのは、
「根性論・西洋唯心論に基く道徳主義的誤謬を用い、
それに反論の弁だけをする者に対しては、暴力・権力・富の力で叩き潰す」
という行為が善・正義と信じきっている事である。

付け加えるなら、この『私にとってクソ面倒臭い人々』自身がその様に教育され過ごし、ましてや順応したからこそ、こういった主張をするのだろうとは一線退く事はできる。
ただしこの一線はあくまで、
「自分が『私にとってクソ面倒臭い人々』に対して引く線」
でしかなく
「『私にとってクソ面倒臭い人々』がこの線から入らない」
という事は、大抵保証されない

よりによって『私にとってクソ面倒臭い人々』が焦燥している

そして私個人がさらに奇妙さを覚えるのは、
「暴力・権力・富において弱い連中を徹底的に潰した」
人々が焦燥している様に見えるのである。

その焦燥の様を覚えた人はどうも私だけでは無い様で、誤謬や詭弁・勘違いを承知で引用するなら;

そして、保護者はそういった言葉に煽られて子どもにプログラミングを習わせる。子どもがプログラミングをしているとき、何が楽しいと思っているのかや、そこでどんなことを学んでいるか、ということよりも、将来の「役に立つ」かどうかで決まってしまう。僕はそこに物悲しさを感じている。

また、大人はプログラミングができるようになった子どもに対して、社会貢献を求めがちである。人々の生活が便利で豊かになるためのソリューションを題材にしたプログラミングコンテストはたくさんある。そこで優勝した子どもを見て、大人は「子どもなのにすごい」と安易に褒める。その結果、直接的に社会に目を向けたテーマでなくとも、子どもたちは他者や社会を志向することで高い評価を受けることを暗黙のうちに理解してしまい、自己の表現が失われていく。プログラミングで何かを作ることは楽しい。その楽しさの先に他者を志向することはとてもいい。でも、それを決めるのは子どもであって大人が強制したり促したりすることではない。

宮島氏の『プログラミング教育の行き着く先が、仕事とか勉強とか社会貢献みたいな意識高いことだけでしか語られないことの物悲しさについて考えたい。』より

という節や、同エッセイの『アート的表現からデザイン的表現へと強制的に移行させられる悲しさ』の章の文面から察した次第である。

ここで勘違いしないで頂きたいのは、少なくとも私は、
「子どもの代弁者」
になるつもりではない。むしろ、
「歳が20以上離れた友人達とでも、任意の技術に限定しての本気の戯れ合い」
がしたいだけである。

「任意の技術に限定しての本気の戯れ合い」が発展した興味深い例として;

気づけば, Garoon チームでも「完成度低いの歓迎 LT大会」という極めて素晴らしい会が 4 月から開かれ,その後も QA コミュニティで「QA ハードルの低い LT 会」,kintone チームで「完成度の低いきんとねLT会」,Garoon に関しては「Garoon開発 "英語の"完成度低いの歓迎 LT大会」という会まで爆誕したというではありませんか.Garoon チームに関しては,完成度が低いポイントが詳細に実況されるという,徹底された低完成度を求める会になっていて「いいな〜」と思っています(?)

西原さんの『完成度 1 % 未満の LT を見せつける会というバタフライエフェクトの具現化(?)』より

という、
「こんな傷の舐め合いみたいなこと、何の役に立つんだよ」
と私の脳内で『私にとってクソ面倒臭い人々』が怒号を発する様な事が現に起こっていたりする。

『人間』を人間たらしめる、私の唯心論−−或いは『誇り』

セイヴィアー「本の装丁には、触れた者たちの想いがこもり、美術品には人間の苦悩や喜び、魂が刻みこまれる。」
(…中略…)
セイヴィアー「生きていくためのパンよりも、一遍の詩の方が人間にとって大切なこともある。」

『デモンエクスマキナ』のオファーオーダー『データ保管施設防衛作戦』のブリーフィング内容より(ver.1.4.2)

私自身がお高く停っているとは自負しつつこのセイヴィアーのセリフには、
「当時失業し生活困窮者にまでなってしまった」
自分には、まさに生きる糧にさえなった。

加筆しておくと、私個人はレゲエやHIP-HOPも文化であるし、自分はFunkotなんぞでDJをやっている時もあるので、それらに幼稚であるという想いは抱かない。レゲエやHIP-HOPのハコには居辛さが沸いてしまうのではあるが。

「うんなこと言ったって、詩で腹は膨れんだろ?」
と『私にとってクソ面倒臭い人々』が怒号を発したが、それはその通りだ。

しかし、食い物を得る為に『信念』や『誇り』を捨ててしまえば、それこそ『非人』へと下るのではなかろうか。

極論、他人から奪うなり奪う過程で殺したりの殺り合いと憎悪のタペストリーが崩壊と根絶を折り成しているのでは無いかと、同ゲームの登場人物『グリーフ』の様な気取った文を思い記す次第である。

こういう発想はそれこそ、
「酪農家という、サラリーマンや公務員よりも富に置いては恵まれた家庭」
で育ったからこそ吐ける発想なのかもしれない。他者の目からハッキリと判る姿で勉学をしていなければ、家族の一員として家業の労働の一部を請け負う事はとても多いのだが。

オチ

「世界を知るためには、それを自ら構築しなければならない」

パヴェーゼ

上記引用さえもが「有志によるアラン・ケイ自身の文書の翻訳」の要約末尾の引用である。

私もあなたも、あなたの周りの人達にも感情が少なからずあるし、沸く。

怒りを抱く時もある。
ただその『怒り』を知るには、自分の頭だけに留めず、外に出して再構築し、俯瞰した方が良い事があるかもしれない。

「外に出せるものなら怒りではない」
と言うならそれもそうだろう。
ただ、怒りという感情を犬・猫・牛などの愛玩動物や家畜に置き換えてみれば、
「自分の身体に脅威を及ぼす可能性のある存在に対しての一つの感情」
でもある。

多少、
「自分の中の何が脅威を覚えたのか」
という心の余裕は、人間として持っておきたい所存である。

その一環として『創作行為と共有』という事を私はやたらと言い続けているだけでしかないし、
「その道具の候補として『フリーソフトウェア』があるだろう? 何を『お金が無い』とか『才能が無い』なんて言い訳してるんだよ……下手すると『才能以前の理屈の部分を知らなくても用いれる』道具はあるぞ?」
と、強要じみたあっせんをしているのである。

さらに逃避行動めいた創作行為さえもが地獄にさえなる事もあるのではある:

とは書いたが、
楽しい地獄に逝くか拷問同然の日々に忙殺されるかなら、私は『楽しい地獄』にちょくちょく寄り道したい次第である。

ひいては、我々は人間という生き物で、興味深いことに「記録をする」という術を得た知的生命体である。ラスコーの『洞窟壁画』よろしくで、インターネッツという洞窟に手形を残していく位が、案外『人生』という生存の罰の最中での安らぎになるのではなかろうかと思いつつ、以下の動画を紹介してこの話は一旦お終いとする:

フリー(自由)ウェアでの自由な創作活動の探求と推進したいっす。みんな妄想や空想をもっと書き(描き)出すといいと思うのだけどなあ……。