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プログラミング教育の行き着く先が、仕事とか勉強とか社会貢献みたいな意識高いことだけでしか語られないことの物悲しさについて考えたい。

このツイートがプチバズりしている。これだけ多くの方から反響をいただくことはこれまでなかったし、頂いているリプやご意見もとてもおもしろいものばかりで、これがインターネットかとなっている今日このごろ。せっかくなので Twitter という文字数が限られた場所ではなく、しっかりと自分の考えや思っていることを書き留めておこうと思う。

前提の共有

前提として、今回のツイートは子どもを対象としたプログラミング教育についての話題である。僕はよくプログラミング教育とエンジニア教育を分けて考えようという話をしている。

先生方の研修会でよく使っているスライド

プログラミングという言葉もいろいろな意味(例えば言語や環境の違いなど)を包含しているし、教育はもっと広い意味を包含している言葉。この2つが組み合わさった「プログラミング教育」という言葉を使うときには、先にスコープを定めておかないと大変なことになる。
ということで、今後の話はスライドでいう左側のプログラミング教育を対象にしていることを先に定義しておく。
また、今回はそういったプログラミング教育を推進している事業者や保護者を意識したツイートであることも、先に書いておきたい。

物悲しさの所在

さて、前提を共有したところで早速本題にはいっていこう。このツイートで僕が言いたかったことはなにか。

プログラミング教育の行き着く先が、仕事とか勉強とか社会貢献みたいな意識高いことだけでしか語られないことの物悲しさについて考えたい。

https://twitter.com/kiriem_/status/1484882012314157059?s=20

子どもを対象としたプログラミング教育を推進している事業者の謳い文句として、「変化の激しい時代、仕事に困らないために今からプログラミングをやっておきましょう」とか「プログラミングをやっておくと大学入試に役立つ」とか、そういった文脈だけで語られることにどんな意味があるのだろうか。確かに、IT業界はこの先も成長し続けるだろうし、国立大学の入試に情報が必修化されるかもなんて話もある。

そして、保護者はそういった言葉に煽られて子どもにプログラミングを習わせる。子どもがプログラミングをしているとき、何が楽しいと思っているのかや、そこでどんなことを学んでいるか、ということよりも、将来の「役に立つ」かどうかで決まってしまう。僕はそこに物悲しさを感じている。

また、大人はプログラミングができるようになった子どもに対して、社会貢献を求めがちである。人々の生活が便利で豊かになるためのソリューションを題材にしたプログラミングコンテストはたくさんある。そこで優勝した子どもを見て、大人は「子どもなのにすごい」と安易に褒める。その結果、直接的に社会に目を向けたテーマでなくとも、子どもたちは他者や社会を志向することで高い評価を受けることを暗黙のうちに理解してしまい、自己の表現が失われていく。プログラミングで何かを作ることは楽しい。その楽しさの先に他者を志向することはとてもいい。でも、それを決めるのは子どもであって大人が強制したり促したりすることではない。

プログラミングという習い事

水泳を習っていた子が大人になってもプール行ってみるかって思うように、ピアノ習ってた子がふとした瞬間にピアノ弾いてたり、それくらいのライトさが欲しい。

子ども時代に水泳を習っていた子が、大人になってもプールに行くことは自然に受け入れられることだろう。また、ピアノを習っていた子が大人になってもピアノを弾くことにも違和感がない。
では、プログラミングはどうだろう。プログラミングをやっていた子がおとなになったとき仕事以外の趣味としてプログラミングをしている姿は想像がつくだろうか。僕は全然ありえると思っているけれど、そうじゃないと思う人のほうが多いのではないだろうか。でも、本当はそうであっていいはずである。水泳、ピアノとプログラミングの違いはなにか。そこに1つの答えがあるような気がする。

スプリンギンの開発者である中村さんはこれをツールの問題だと指摘してくれた。なるほど、たしかにそれはありそうだ。「プログラミング」というとどうしても業務で使われるようなプログラム言語や環境が連想されてしまうが、デジタルスケッチブックだったらそうはならない。

あともう一つ考えられるのは、水泳もピアノも「本物」の道具を使っているというところだろうか。競泳選手が泳ぐプールと子どもたちが泳ぐプールは深さや距離の差はあれ基本的には変わらない。ピアノも超高級なスタインウェイなどでなければ子どもも大人も同じ道具を使う。しかし、プログラミングになると、途端に子ども向けの玩具の延長にある道具が登場する。

子どもが使っているプログラミングツールの代表格とも言える Scratch を開発したMITメディアラボのミッチェル・レズニックは、『ライフロングキンダーガーテン』(2018)の中で、子ども用玩具について次のように述べている。

 今どきのテクノロジーは素晴らしいものです。玩具はエレクトロニクスとセンサーで満たされて、動き、身振り、音を検知し、それらに対して光、音楽、動きで反応します。(中略)しかし、子供たちはこうした玩具とやりとりして、一体何を学ぶのでしょうか?玩具会社のエンジニアやデザイナーたちは、これらのおもちゃを作ったときに多くのことを学んでいるに違いありません。しかし、そのおもちゃと触れ合う子供たちはどうでしょう?玩具そのものが創造的であるという理由だけで、子供たちが創造的になる手助けができるわけではありません。
 どのおもちゃが子供たちに最適化を、どのように判断することができるでしょう?私からのアドバイスは次の通りです。おもちゃがあなたの子供に何ができるのかを問うのではなく、あなたの子供がおもちゃで何ができるかを問うのです。(中略)私は「考える玩具」ではなく、「考えさせる玩具」に興味があるのです。

ミッチェル・レズニック著 酒匂寛 訳『ライフロング・キンダーガーテン』日経BP社 2018年 p.82-83 太字は筆者編集

ここで勘違いしないでほしいのが、子どもが使っているプログラミングツールの代表格とも言える Scratch は子ども向けの玩具ではまったくないということだ。少しでも Scratch を触って作品を作ったことがある人であればすぐに気づくと思うが、Scratch は Scratch からなにかをしてくれるわけではない。常にユーザ(=プログラマ)が意図的にブロックを組み合わせプログラムを組んでいかなければ思い通りのものはできあがらない。真正性という意味では Scratch は十分にプログラミング環境として機能している。
しかし一方で、なんの拡張性もなく数回遊んだら飽きて見向きもされないようなプログラミング玩具がどんどん作られている。プログラミングスクールや学校はこぞってそういったものを導入していくが、結局子どもたちが熱中するのは、自らのアイデアを実現するために自由度が高いツールである。LEGOブロックや Minecraft がなぜあれだけ世界中の子どもから支持されるのか。それは、自ら作ることが楽しくてしょうがないからであろう。

表現のベクトル(アート的表現とデザイン的表現)

子どもがプログラミングをするの理由は、将来役に立つとか仕事になるとかではない。プログラミングが楽しいから。ただそれだけの理由だと思う。これは @abee2 先生もよくおっしゃっていることだけど、プログラミングが楽しい以上に子どもがプログラミングをやる理由なんて本来ない。作って表現することが何よりも楽しいから子どもたちは熱中するのだ。

私は、その楽しさとともにある表現には、2つの種類があると考えている。1つは自己を志向するアート的表現。2つめは他者を志向するデザイン的表現である。
アート的表現において満足するのは自己であり、表現したものを楽しむのも自己である。子どもの様子を見ていると、プログラミング初心者ほどアート的表現にのめり込む。本能的に自己表現がしたいと思っているのかもしれない。だからアート的表現において、客観的な作品のクオリティなどはどうでもよく、その作品を作った子どもがどれだけ満足し楽しんだかが重要となる。
一方で、ある程度プログラミングをやった子どもは他者を志向するデザイン的表現をし始める。デザイン的表現において、満足するのは自己であっても表現したものを楽しむのは自己と他者の両方である。例えば、子どもがプログラミングをしてゲームを作っているとき、はじめのうちは自分が楽しめればいいので、操作方法や必殺技の説明はどこにもない。自分が楽しめればいいからである。しかし、途中で他者に楽しんでもらいたいという思いが芽生え、段々とユーザーフレンドリーな作品へと変容していく
さらに進むと、自分が楽しいかではなくどれだけ多くの人に楽しんでもらえるかを志向し始める子どももいる。これは完全なデザイン的表現と呼べるものであろう。

アートは評価できないが、デザインは評価できる。なぜなら、デザインは評価者の主観でどこが良かった/悪かったを判断でき、それを作者に伝えたら受け入れてもらえる可能性があるからだ。しかし、アートはその作品を作った子どもにしか評価できない。そして、よかったら満足し、悪かったら改善し続ける。それは他者には踏み込むことができない世界なのだ。
子どもが楽しんでいること以上に、どんなものを作ってそれをどう評価するかといったことが重視されるのはいかがなものか。ここにもなんとも言えない物悲しさがある。

アート的表現からデザイン的表現へと強制的に移行させられる悲しさ

プログラミングスクールやワークショップ、授業では多くの場合、初心者向けの題材として、個人でゲームを作ったりアニメーションを作ったりするアート的表現が採用されている。子どもは、初めて自分が作ったゲームを楽しみ、遊び、もっと(自分にとって)面白くなるように改造をしていく。
しかし、その後はアート的表現の皮を被ったデザイン的表現が求められてしまうのだ。「他の人がそれで遊ぶときどうかな?」といった声掛けは、アート的な表現をしている子どもにとっては余計なお世話でしかない。でも、往々にして大人は子どもにデザイン的表現を求める。ここのギャップにも悲しさがある。

私たちはもっと子どものアート的表現を大切にすべきだ。心ゆくまで自分の思っていることを作品としてあらわすことは、おとなになってからではなかなかできない。子ども時代の特権とも言える(もちろん大人になってからでもできるが、ハードルが高いのは事実であろう)。
子どもがアート的表現に飽き始めたり、次何をしようか考えているときに他者や社会を向いたデザイン的なことを提案するくらいでいいのだろう。
役に立つ/立たないはどっちでもいい。子どもにそんなことを求める必要はない。自分にとって役に立ち、自分にとって新しい。それは立派な創造性でああるとレズニックも言っている(同書 p.47)。

プログラミング教室が提供するもの

ここで話が個人 / 社会 という2軸から、経験 / 結果 という2軸へと変わってきた。できればこういった二項対立的な議論は避けたいところではあるけれど、まずはこのフレームで考えてみたい。

僕が関わっているいくつかのプログラミングスクールでもよく出てくる話題として、スクール側は子どもにたくさんの経験を提供して子どもが楽しく熱中してくれればそれでいいと考えているのに、保護者の方はプログラミングを習わせることでどんなことができるようになって、どう役立つかについて説明するよう求めてくるというテーマがある。「子どもが楽しく創造的に学んでいます!」といっても目に見えない(ことが多い)ものだからとても答えづらい。
確かに月謝を頂いている以上、保護者の目に見える形で結果を示したいのはそのとおりだが、教育とはそもそもそういったものではない。何かをすれば必ずなにかができるようになる、といった行動科学的な発想では、教育は捉えきれない。
子どもが経験することに意味があって、そこから何が生まれるかはその子どものこれまでの経験との結びつきや興味関心に大きく左右される。しかし、そこにお金を出そうと思う保護者は残念ながら多いとは言えない

ツイートの中では、水泳・ピアノ的習い事観(経験重視)と、英会話スクール的習い事観(結果重視)という言葉でこれを説明している。子どもに水泳やピアノを習わせている保護者の中で将来我が子をプロの選手やピアニストにしたいと思っている人はどれくらいいるだろう。でも一方で、英会話スクールや塾といった学力と直結する習い事については結果がすべてと考えている人のほうが多いだろう。

数量的エビデンス重視の風潮

こういった見方は、プログラミング教育に限らない。昨今では世界的にエビデンス(科学的根拠)に基づく教育政策が求められるようになっている。教育においては、エビデンスをどう定義するかによって様々な議論がなされている。しかし、自然科学的な発想に基づく数量的なエビデンスしか見ることができない場合、それは教育のほんの一側面しか見れていないことだと私は思っている。「楽しい」とか「熱中」とか、そこに確かに存在している現象だけれども数値で測定不可能なものについては切り捨てられてしまうからである。
経験と結果という2軸も、エビデンスの話と関係しているのだろう。

「役に立つ」からの脱却

プログラミングに限らず、社会全体から有意味なものしか存在を認めない、くらいの圧を感じる。経済が停滞するとこうも閉塞的な雰囲気になってしまうのだろうか。2020年代、そろそろ人類はもう一度余白のある生活に戻れるようになってほしいと思う。

教養 vs ファストナレッジの問題

「ファストナレッジ 」とは、ファストフードを文字って最近使っている言葉である。ファスト映画とかと同じ意味だと思ってもらえればいい。教養ではなく役に立つ知識へ。しかも知識を自分のものにするためにかかるコストは最低限にしたい。そんな現代人の知識のあり様についてを表現する言葉として重宝している。
例えば、本の内容は Instagram に投稿された誰かが要点だけまとめた画像を見て知った気になったり、YouTube の動画でさえショート動画が隆盛している。映画からドラマ、YouTube から TikTok と、1つのコンテンツに割く時間がどんどん短くなってきている。
「現代人は忙しすぎるから、全部見ている暇なんて無いんだ」という意見が、余白のなさを如実にあらわしている。

余白のなさが生む、有意味なものしか認めない空気感

学校(school)の語源はスコレー(scholē) = 余暇 という話は聞いたことがある方も多いのではないだろうか。余暇、つまり余白がないと学びは起こらない。それは時間的余白も経済的余白も精神的余白も含んでいる。根本的に学問や学びは自分にとって役に立つものではない。ここでいう役に立つというのが自分の生活をしていくなかでの役に立つだとしたら、なおさら役に立たないだろう。しかし、私たちは学ぶ。それはなぜか。学びとは、根本的に知的好奇心を掻き立てる楽しいことだからだ。

プログラミングに話を戻そう。子どもはプログラミングを楽しみながら、学ぶことを楽しんでいるのだ。プログラミング教育の始祖とも呼べるシーモア・パパートは、作りながら学ぶことを「構築主義(constructionism)」と呼んだ。子どもはモノを作りながら多くのことを学び得る。それは役に立つとか立たないとかそういう次元で語られることではない。楽しいから作り、楽しいから学ぶのである。

まとめ

以上、一連のツイートについて Twitter の文字数制限の裏側にあった自分の考えや思いについてまとめてきた。この note において主張したかったことは次の3点である。

一点目は、将来役に立つかどうかは関係なく、楽しいからプログラミングをするという理由を尊重すべきということである。
大人になってプログラミングを使う職業に就かなかったとしても、どこかでふとプログラミングをしてその時々の自己を表現したり、あるいは自分にとって役に立つアプリを作ったり。趣味としてのプログラミングによるものづくり、デジタル・クリエイションの可能性は存分にある。

二点目は、自己を志向するアート的表現の重要性についてである。他者や社会といったベクトルだけでなく、自己を志向するアート的表現そものの価値を今一度捉え直す必要がある。特にプログラミングを子どもに教えている先生や、スクール等に通わせようと思っている保護者の方は、子どものアート的表現を認め寄り添い、尊重してほしい

3点目は、こと子どもの教育に関しては「役に立つ」という結果重視の観点から、子どもが楽しみ熱中するという経験重視の観点へと変わるべきということである。役に立つ / 立たない という二項対立的な視座から見える教育は、やせ細ったなんのおもしろみもない殺伐とした世界である。
子どもが楽しみ熱中することを尊重し、その手助けをすることが巡り巡って一番の教育効果であると私は信じている。

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子ども向け

以上語ってきたような教育観を持ちながら、私は千葉県柏市で CoderDojo Kashiwa という子どものためのプログラミング道場を開催している。CoderDojo は非営利の活動で、子どもと保護者の参加は完全無料である。最近だとオンラインでの開催がほとんどなので、もし興味があればぜひ参加してほしい。

CoderDojo は現在日本国内に238箇所以上存在している。お近くの CoderDojo にもぜひ参加してもらえればと思う。詳細はこちらのホームページからどうぞ。

また、3月には学習院さくらアカデミーという生涯学習講座で、3日かけてプログラミングによる作品作りをするワークショップも開催する。オンラインでどなたでも参加できるので、興味があればぜひ。

大人向け

なお、大人の皆さま向けには、同じく学習院さくらアカデミーで3月にプログラミング教育についてお話する講座が開講される予定である。ここに書いたこと以上にたくさんの話をする予定なので、よければご参加ください。


宮島衣瑛です!これからの活度のご支援をいただけると嬉しいです!