花山天皇は本当に異常な天皇だったのか?
こんにちは!
よろづの言の葉を愛する古典Vtuber、よろづ萩葉です。
今回は大河ドラマ「光る君へ」でその狂気さが話題になっている、花山天皇についてお話しします。
花山天皇といえば即位式でのとんでもないエピソードをはじめとして女性好きだと言われたり、イタズラ好きだったり子どもみたいだったり、
とにかくヤバい天皇だったというイメージが強いですよね。
史実でも本当にそんなにヤバいやつだったのか、いろんな古典文学を参考に花山天皇の人柄を探っていきたいと思います!
花山天皇とは
人柄の前にまず、花山天皇の経歴を見ていきましょう。
父親は冷泉天皇。
この頃、冷泉系と円融系で交互に天皇になるというややこしいルールがありました。
花山天皇の在位中に男の子が生まれなかったため結局うまくいかないのですが、最終的に円融系の父と冷泉系の母を持つ後三条天皇が即位することで終わりを迎えます。
花山天皇の名前は「帥貞(もろさだ)」。
17歳の時に践祚、そして19歳で出家してしまいます。
在位はたったの2年間。
その後、22年間存命でした。
退位してからの時間のほうが圧倒的に長かったんですね。
花山天皇は当時の関白・頼忠、右大臣・兼家、左大臣・源雅信とは距離を置いていたので、叔父の義懐と乳母子の惟成が実権を握っていました。
「永観の荘園整理令」の発布や「沽価法」の制定というような政治を行っています。
そんな花山天皇ですが、彼には様々な衝撃的なエピソードが残されています。
まずは栄花物語と大鏡の記述を見てみましょう。
栄花物語と大鏡の花山天皇
栄花物語とは
栄花物語は平安時代に書かれた歴史物語で、全40巻です。
そのうち30巻を正編とし、宇多天皇から後一条天皇までの歴史が描かれています。
正編の作者は赤染衛門と言われています。
女性が書いた歴史物語である、というところがポイントですね。
大鏡とは
大鏡は平安時代後期の院政期に書かれた歴史物語です。
文徳天皇から後一条天皇までの時代が書かれています。
作者は不明ですが、こちらは男性によって書かれました。
栄花物語も大鏡も、藤原道長の栄華を称える内容となっています。
また、どちらも歴史書ではなく「歴史物語」なので創作が多く含まれている、というのが重要になってきます。
栄花物語にも大鏡にも花山天皇のエピソードがたくさん登場します。
栄花物語のエピソード
まず栄花物語に描かれている花山天皇の姿を見ていきますね。
…という感じで、花山天皇は女性関係に問題のある異常な人物だったかのように描かれています。
ですがこの内容にはかなり嘘が含まれているようです。
まず、女御が入内した順番が史実と全く異なるのです。
4番目に入内したとされる忯子は、実は花山天皇が即位してすぐに入内した1番目の女御でした。
そして忯子が亡くなってから、本当の4人目の女御・婉子女王が入内しています。
忯子を寵愛していたのは事実だとしても忯子の死から出家までは一年も時間が空いており、亡くなったショックだけで出家したとするのはちょっと辻褄が合わないんですね。
さらに「熊野詣でをした」という部分ですが、花山院は熊野詣でに行きたいという希望を一条天皇に許してもらえず断念したという記録があるようです。
これは藤原実資の日記「小右記」と藤原行成の日記「権記」にそれぞれ記されているので史実と考えて良さそうです。
なぜ栄花物語で熊野詣でをしたことにされたのかはよくわかりませんが、この部分も創作と考えられます。
母と娘を同時に妊娠させた話の真偽は不明のようですが、政治に口出しをしたというのは考えにくいようです。
一条天皇の時代に花山院が口出しをできるような立場ではないからです。
そして「長徳の変」のお話ですが、これも実際は隆家が花山院の袖を矢で射抜いたのではなく花山院と隆家の従者同士の争いだったようです。
それでも花山院にとっては不名誉なことなので隠したかったようですが、伊周と隆家を追い出したかった道長がこの事件を利用したせいで明るみになってしまったんです。
大鏡のエピソード
では次に大鏡の内容を見ていきます。
花山天皇の出家に関しては、兼家と道兼に出家に追い込まれたという話が史実だと考えて良さそうです。
こちらの家系図を見るとわかるように、兼家は早く花山天皇を追い出して自分の孫である一条天皇を即位させたかったんです。
花山天皇は権力争いに巻き込まれた可哀想な天皇だったんですね。
そして、風流者であったという話。
花山院は三代集のうちの一つ・拾遺和歌集の撰者と言われています。
(三代集:古今和歌集、後撰和歌集、拾遺和歌集)
院自ら編纂したというのです。
似た名前の歌集に拾遺抄というものがあり、こちらは藤原公任による歌集です。
拾遺抄と拾遺和歌集の誕生については謎が多く、拾遺抄にさらに和歌を増やしたものが拾遺和歌集だという説や、拾遺和歌集から特に優れた和歌を取り出したものが拾遺抄だとする説など様々ですが、
道長が娘の彰子に三代集をプレゼントした話が紫式部日記に記されていることから、道長は拾遺和歌集を重要視していたことがわかります。
さらに後世ではあの藤原定家も拾遺和歌集の方が重要だと言っています。
道長の日記「御堂関白記」には道長との和歌の贈答についても記されており、花山院が優れた歌人であったことは疑いようもない事実です。
風流な生活を送っていたことも確かなようです。
ですがこれは、当時の天皇である一条天皇が倹約を推奨していたため「一条天皇は優秀なのに花山院は優雅な暮らしをしていて異常」と思われていた部分もあるようです。
さすがにそれは理不尽かなという気がしますね。
江談抄と古事談の花山天皇
さらに有名なやばいエピソードを見ていきましょう。
これは説話集、江談抄と古事談に書かれています。
花山天皇の異常エピソードの中でも特に有名でインパクトのある話ですが、どうやらこれも創作の可能性が高いようです。
ここで重要なのが、「小右記」の即位式の日の記事。
ちなみに花山天皇の蔵人頭(天皇の側近)という重要なポジションだった実資の日記「小右記」において、
花山天皇が異常だったという話は特に書かれていません。
基本的には淡々と政治を行う姿しか描かれていないんです。
そのことから花山天皇が異常だったということ自体が嘘だと考えられています。
ですがこの即位式の日、「即位式で自らの冠が重いと言って脱ぎそうになった」と記されているんです。
それ以外は何も書いていないので滞りなく式が進んだと考えて良さそうですが、この記事をのちの人がいいように書き換えてしまったのではないかと言われています。
実資が知ったらびっくりしそうですね。
仏教説話集の花山天皇
最後に、こちらは異常さを示すものではありませんが、
鎌倉中期に書かれた沙石集という仏教の説話集には、
「花山院は真の遁世をした人であり、本当に賢い人は仏門に入るべきだ」と花山院のことを褒めている記事があります。
さらに各地に修行譚が残っており、書写山、叡山、熊野に詣でていたとされています。
中には史実がどうか怪しい…というか明らかに嘘のものもあり、ファンタジーっぽい説話も多いので信用できるかは微妙です。
栄花物語の時にもお話ししたように、熊野に詣でたことは創作と思われます。
ですが熊野詣でをしようという気持ちがあったこと、そのほか小右記や権記の記録から、仏道修行に励んでいたこと自体は嘘ではなさそうです。
狂気的に書かれた理由
狂気的なエピソードの多くは本当か嘘かわからないようなものばかりなので真偽を判断するのは難しいですが、
少なくとも創作されたエピソードが多いことはおわかりいただけたでしょうか。
好色だったことは事実だと思います。
その他にも確かに当時の常識で考えると変わったことはしてますが、そんなにも天皇のことを狂気的に描く必要があったかと言われると疑問ですよね。
ではなぜ花山天皇はここまで異常者として描かれることになってしまったのか。
それは一条天皇側を正当化させるためだったと考えられます。
冷泉系と円融系を見ると、嫡流は冷泉系ですよね。
円融系の外戚として実権を握っていた兼家や道長たちにとって、自分たちの立場を正当化する必要があったんです。
そのために冷泉系の2人を狂気に満ちた人物に仕立て上げたんです。
こんなやばい人たちが天皇でいたら国が崩壊するから、円融系の方が天皇に相応しい。ということですね。
実際、花山天皇の父・冷泉天皇も栄花物語や大鏡では異常者として描かれています。
もし本当にこれらのエピソードが作られたものなんだとしたら、
道長側の人間が書いた歴史物語による印象操作のせいで、花山天皇は1000年たった今でも異常な天皇だと思われていることになります。
なんだか悲しいですね。
この動画で、少しでも花山天皇のことを知っていただけたら嬉しいです。
動画で解説
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