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紫式部って、どんな人?
こんにちは、よろづ萩葉です。
YouTubeにて古典の解説をする万葉ちゃんねるを運営している、バーチャル古典オタクです。
ここでは、紫式部とはどんな人だったのか、簡単に記していきます。
この時代のことは『諸説ある』ものが多いので、100%事実というよりは物語に近い感覚で読んでいただければと思います。
紫式部といえば源氏物語の作者として有名ですが、それ以外はあまり知らないという方が多いかもしれません。
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中宮彰子に仕えた女流作家ということで、同じように中宮(皇后)定子に仕えていた清少納言と比べられることが多いですね。
紫式部は、実はとってもネガティブな女性だったんです。
彼女の著書「紫式部日記」を読むと、そのことがよくわかります。
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人間関係の悩み、将来への不安、他の女性たちへの厳しい批判…と、とにかくいろんなことに頭を悩ませ、ひたすらネガティブになっていく紫式部の姿を見ることができます。
紫式部の家族構成
彼女の父親は藤原為時といい、優秀な漢詩人であり学者でした。
父親の影響で、紫式部は子どもの頃から漢詩に触れる機会が多くありました。
ただ、どんどん賢くなっていく紫式部に対して、父親は常に
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「お前が男だったらよかったのに」
と言っていたようです。
この時代は、女性が知識をつけることは良しとされていませんでした。
彼女のネガティブさは、父親の影響が大きいかもしれません。
そして、紫式部の夫は藤原宣孝という人物です。
2人は年が離れていて、結婚からわずか2年で死別してしまいます。
2人の間には藤原賢子(かたいこ)という娘がいました。
またの名を大弐三位、といいます。
彼女の和歌は百人一首にもとられていますね。
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有馬山猪名の笹原風吹けば いでそよ人を忘れやはする
紫式部は夫と死に別れた寂しさを紛らわすために物語に没頭するようになり、源氏物語を書いたと言われています。
初めは趣味で書き始めた源氏物語でしたが、瞬く間に評判は広まり、やがて藤原道長の耳にも届くこととなります。
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道長の思惑
道長は自分の娘・彰子を、一条天皇に嫁がせていました。
一条天皇は、清少納言が仕えた定子が嫁いだ天皇です。
一条天皇は定子のことが大好きでしたが、彼女は24歳という若さで亡くなりました。
定子を失った天皇はとても悲しみます。
彼は彰子とは仲が良くなかったようです。
それを知った道長は、
定子には優秀な家庭教師である清少納言がいて、漢文の教養と知識があった。
そのため一条天皇とも話が弾んでいた。
我が娘・彰子にも、優秀な家庭教師をつけよう。
と思いたち、
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お声がかかったのが源氏物語の作者である紫式部でした。
一条天皇が源氏物語のファンだったので、その作者がいるとなれば天皇も彰子の元に通うようになるのでは?と考えたためとも言われています。
紫式部の苦難
道長から多大な期待をされていた紫式部は、さぞプレッシャーを感じていたことでしょう…
加えて、頭の良い女性は他の女性から目の敵にされる時代。
清少納言はうまく切り抜けていたようですが…ネガティブな紫式部は同僚からいじめを受け、なんと…
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5ヶ月にわたり出仕せず引きこもり状態になってしまったのです!!
とは言え、いつまでも出仕しないままというわけにもいきません。
そこで紫式部が編み出した処世術は、なんと
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「馬鹿なふりをする」というものでした!
漢文なんて何も知らない、自分には何もわからない、と馬鹿なふりを演じたといいます。
流石に周りも信じなかったと思いますが…
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面白いと思われたのか、頭の良さをひけらかさない人柄が好かれたのか、どうやら同僚とはそこそこうまくいったようです。
それでもやっぱり紫式部を妬む人はいたようで…
一条天皇が
「賢い紫式部にぜひ日本書紀の講義をしてほしい」
と褒めたため、左衛門の内侍(さえもんのないし)に
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「日本紀の局」というあだ名をつけられ悪口を言いふらされたそうです。
この辺りの話は「紫式部日記」に記されています。
紫式部日記
彰子に仕え始めてから書かれたのが、紫式部日記です。
日記、とありますが、主な内容は彰子の出産についてです。
清少納言の悪口を紫式部が書いたのも、この紫式部日記の中でした。
ですがこれは紫式部の個人的な感情で書かれたものではないようです。
紫式部が彰子に仕えていた時にはすでに定子も清少納言もいませんでしたが、枕草子によって、定子の後宮がいかに華やかだったかというのが世間に広まっていました。
道長にとってはあまり喜ばしくないですよね。
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定子の後宮のイメージを下げて、彰子を持ち上げること。
これが紫式部の役割だったと考えられます。
とはいえ、自分は賢いことを隠して生きているのに、知識をひけらかしてチヤホヤされていた人たちが憎い、という気持ちはあったようで…
加えて、清少納言は枕草子の中で紫式部の夫のことを批判しているので、個人的な恨みはありそうですね…
紫式部と公任
紫式部日記には、こんな話も記されています。
有名な歌人である藤原公任が、酔った勢いで紫式部に
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「この辺りに若紫は居ませんか」と声をかけました。
それに対し紫式部は
(光源氏に似た人も居ないのに、どうして紫の上が居るものか)と思って無視したそうです。
若紫、紫の上というのは、光源氏の恋人です。
公任と紫式部は恋仲だったのでは?とも言われていて真偽は不明ですが、これを読むと、公任に言い寄られても
「光源氏くらいかっこいい人にしか興味ありません」とあしらっているように思えますね。
紫式部の名前
紫式部の名字は藤原なので、もともとは「藤式部」と呼ばれていました。
「式部」は父親の役職に由来しています。
公任に「若紫」と呼び掛けられたことが影響しているのかどうかはわかりませんが、源氏物語が有名になったこともあり、ヒロインの名前をとって「紫式部」と呼ばれるようになったようです。
彼女の本名ははっきりしませんが、一説では「藤原香子(かおりこ)」ではないかとされています。
紫式部の和歌
百人一首に、紫式部の和歌がおさめられています。
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めぐり逢ひて 見しやそれとも わかぬ間に 雲がくれにし 夜半の月かな
久しぶりに会った幼馴染とのんびり話す間もなく、慌ただしく別れてしまった時に詠んだものです。
彼女は昔の友人を懐かしんでいましたが、時間が経って環境が変われば人の心も変わってしまうもの、という悲しみを抱えていたようです。
源氏物語は大人気ですが人柄は知られていない紫式部のことを、少しでも知っていただけたでしょうか。
とにかくネガティブな彼女にとって、平安時代の後宮は生きにくかったかもしれませんね。
そんな場所にいながら、必死に自分の居場所を築き上げていった紫式部に、少しでも興味を持ってもらえたら嬉しいです。
動画による解説はこちら
源氏物語の解説動画はこちら
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