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(この街が好き) 熱海芭蕉苑での生活

1.別荘探しの動機

 定年後は自由気ままに生きたいと思っていたので、50代後半になると具体的にどのように余生を過ごすべきか考えるようになった。旅行が好きなので日本や世界を旅行する事も考えた。しかし、当時大型犬(ゴールデンレットリーヴァーとシベリアンハスキー)2頭を飼っていたので、旅行は国内でも難しい。犬連れで泊まれるホテルは限られているし、ハスキー犬の方は乗り物に弱く、長時間の車での移動は問題があった。従い、旅行を諦め、別荘生活もしくはリゾート地への移住を念頭に定年前より別荘を探し始めた。当時は海外駐在中だったので、一時帰国の際は必ず、リゾート地を訪れた。
 琵琶湖畔の街で生まれ育ったので、森よりも海(湖)を見る方が安らぎを覚える事より①海の近くで海が見えること。②気候が温暖である事。③使える庭がある事(別荘地では傾斜地に建つ家が多く、折角広い敷地があっても殆ど役に立たない。)。④東京から近距離である事(当時はまだ子供3人のうち2人が東京の大学生であった事から東京に住むことをメインに考えていた。)。以上の4条件を満たす物件(別荘)を伊豆半島、房総半島を中心に探し始めた。

2.別荘地訪問

 あちらこちらの別荘地を訪問して、良さそうな物件の内覧を重ねた。房総半島ではなかなか海の眺望に恵まれた別荘地には巡り会うことができなかった。伊豆高原では庭が緩斜面で果樹などが植えられ、散策ができる庭のある別荘があったが、残念ながら海は見えなかった。色んな別荘地を見た上で最も条件の良かったのが、下田の碁石が浜だった。別荘地は緩斜面にあり、そのため、ほとんどの家が平坦に近い、実際に使える庭を持っていた。また、海の眺望も確保できる別荘が多かった。プライベートビーチがあるのも大きな魅力だった。条件は理想的だったが、残念な事にそれほど築年数は古くないにもかかわらず、内覧した全ての別荘の建物に欠陥があった。壁にひび割れがあったり、床が撓んだり。マンションにも興味を持ったが、やはり、共用部の廊下の天井に雨漏れが見受けられた。従い、碁石が浜を第一候補とし、良い条件の物件が売りに出るのを待つ事にした。しかし、妻は東京から車で4時間かかる事に不安を持っていた。シベリアンハスキーが車酔いするからだ。そのため、ダメもとで東京から近い熱海の別荘地をもう一度、見てみる事にした。それまで熱海には都会のイメージが強く、別荘には向いていないと言う偏見を持っていてあまり期待はしていなかった。

3.熱海の別荘との出会い

 しかし、幸いにも最初に内覧した物件が熱海自然郷の中でも滅多に無い、緩やかな斜面に建てられた別荘だった。庭は傾斜地ではあるが、楽に歩ける程度であり、樹々は境界線状に植えられており、庭の中心には低木が疎らに植えられている程度で、好きなように手が入れられると言う感じで気に入った。これなら犬達も自由に走り回れそうだ。海の眺望も絶景とはいかなくても十分楽しめると思われた。家は古かったがその分価格が安く、リノベーションの費用に回す事ができると考えた。丁度、定年になる時期でもあり、迷わず購入の契約をした。2010年3月であった。
 敷地は400m2で、床面積120m2+地下倉庫の鉄筋コンクリート構造の建物。あまり別荘らしくない造りだったが、3LDKでバランスの良い使い勝手の良さそうな建物である。建物に比べ、温泉は立派だった。緑の大理石の大きくて立派な浴槽と広い洗い場。まるで小さな温泉旅館の洒落た風呂場のようだ。これならリラックスして温泉に浸かれそうだ。一目惚れとまではいかないまでも十分に満足できる物件だった。

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        ベランダから見える朝日の眺望。

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トロピカルな雰囲気を出したくて、前庭に芭蕉を植え、芭蕉園と名付けた。

4.熱海の別荘での生活

 気候は下田は夏涼しく、冬暖かいと言うイメージがあったが、熱海にはそこまで期待していなかった。しかし、気温は天気予報を見ると都心に比べ、夏は二度低く、冬は二度高い事が多かった。家がある東京都稲城市は内陸であるため、都心に比べ、夏は二度高く、冬は二度低い。つまり、稲城と熱海を比べると夏は四度涼しく、冬は四度暖かい事になる。さらに別荘は海抜300mほどの山腹にあったので、熱海市内よりも気温が二度くらい低かったのだろう。実際、エアコンはリヴィングに一つしかついて居なかったが、夏暑くて寝られないと言うことは1日もなかった。エアコンをつけるのは真夏でも昼間のひと時だけで十分だった。山に西日が遮られ真夏でも午後3時をすぎるとエアコンを消せるぐらいに涼しくなった。嬉しい誤算だった。軽井沢の夏はもっと快適かもしれないが、1年を通して比較するなら熱海の気候の方が遥かに快適だろう。夏の夕刻、騒々しいセミの鳴き声を聞きながら、ベランダで遠くに海を眺めながら、酒を飲み、夕食を取るのが最高の贅沢だった。それ以上の楽しみはいらないと思った。ただし、冬は別荘の断熱性能が極めて低く、全く外と家の中の温度が変わらず、熱海の温暖さを満喫することはできなかった。しかし、それでも寒くて辛いと言うことはなかった。1日中何もしなくても熱海の気候を満喫し、美味い食事と酒が有ればいつも楽しく過ごす事ができた。犬達もエアコンが要らない涼しさをきっと快適に思っていたに違いない。

 お隣には定年後に永住し、余生を満喫されている夫婦が居て、別荘地での生活の仕方や楽しみ方を教えてもらい、親しく付き合いをさせて頂いた。
  朝には運動のため、結構急な坂を走った。ゆっくりだが50分近く走っていたので結構良い運動になった。しかし、年齢的に山道を走るのが辛くなると車で長浜海浜公園まで行き、海岸線を小山臨海公園まで往復した。一足先に老いた犬も山道よりも海辺の方が快適だっただろう。時には遊びに来た孫を連れて海水浴も楽しめた。最初は熱海を拠点にして伊豆半島をドライヴしようと考えていたが、熱海で十分楽しめたせいかあまり遠出はしなかった。ただし、時には山の景色も楽しもうとよく箱根にはドライヴした。意外と箱根は近かった。
(写真)上より
長浜海浜公園を散歩。水が大好きなゴールデンと水が怖いハスキー
箱根へのドライブの途中、富士山を望む。
家族旅行の伊豆。

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5.庭の再生

 別荘生活で最も時間をかけたのが、庭の家庭菜園だった。もともとガーデニングは好きで熱海の庭には果樹や好きな木を植えて平坦な場所にバーベキュウができるようなスペースを作ろと思っていた。また、犬が走り回れる様な庭になればと期待していた。

 しかし、契約後は業務引き継ぎのため駐在地に引き返し、定年、帰国したのは7月だった。3ヶ月余りは別荘は無人であった。その時、庭を見て衝撃を受けた。草は茫々(これは仕方のないこと。)だった。それよりもまるで地崩れを起こした様に通路は土で埋まっていた。庭の上部の土が下部に崩れ落ちていた。なぜこんな事になっているのかと途方に暮れた。色々と原因を調べるために人に話を聞いたが、どうやら猪に荒らされた様だとわかった。3ヶ月ほど無人であった事より猪が住み着いたのかもしれない。契約時にはこんな話は聞いていない。契約をキャンセルできるか等、しばらく思い悩んだ。

 しかし、時間はたっぷりある。自力でこの庭を思い通りに作り替えようと決意。まず、雑草を抜きながら、元の地形がどうなっていたか探る作業をした。元の庭の全景がある程度把握できた段階で二度と地崩れが起こらないように竹や廃材を利用して土留を作り、庭の底部よりバケツで土を上部に運び上げて行った。夏の時期にバケツで土を運び上げる作業は重労働だったが、時間に追われる事もないので、根気良く作業を続けた。何段にも土留を作って行くと小さな段々畑のような形状になった。また、猪の侵入を防ぐため、熱海市役所に教えを受け、鉄筋コンクリート製作する材料の鉄筋と鉄の格子を使い、別荘地の周り全てに鉄柵を自作した。

 どの様に庭を作り、使って行くか未だ具体的なアイデアは持っていなかったが、この段々畑の様な庭を見て畑として野菜を栽培する事にした。土質は悪くない様に見えたが不思議な事にミミズが全くいなかった。猪が土を掘りミミズを食べると聞いたが、なるほどと納得できた。以来、野菜の栽培、秋には落ち葉を集め堆肥作りをするなど、別荘での楽しみは規模の大きな家庭菜園になった。有機栽培や自然農法に興味を持ち、本を買って勉強し、畑で実践した。特に自然農法は熱海が発祥の地であるMOA自然農法の財団があり興味を持っていた。農薬は使わず、肥料も自分で作った堆肥以外は使わなかた。それでも、色んな種類の野菜を栽培したが、結構、成績はよかったのではないかと自負している。また、傾斜で畑にならないところにはシークワーサー、みかん、ゆずの柑橘類、ブルーベリー、栗等の果樹を植えた。

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 夏の間は最低でも週一回、水やり、収穫等の畑の手入れの為に別荘に来る必要があり、時には日帰りで電車で来た時もあった。

6.別荘生活の終焉

 楽しかった別荘生活にも終わりが来る。犬は人の何倍もの速させ老いて行く。大型犬の寿命は12年と言われている。それでも愛犬のゴールデンは2013年6月に16歳で、ハスキーは2019年2月に15歳で亡くなるまで長生きしてくれた。しかし、2018年後半よりハスキーがあまり動けなくなると熱海への足は遠のいた。そしてハスキーがいなくなると熱海生活の意味は半減した。また、子供達も独立し、結婚して孫達が生まれた。皆、共稼ぎで時折、孫の世話をするのが妻の大事な役割になって来た。我々の生活も転機を迎えた事を自覚せざるを得なかった。
 他方では、2012年11月より20代後半に購入し、賃貸マンションとして保有していた浜松町のマンションの理事、理事長としてマンション建替事業を推進していたが、2018年10月に建替決議が成立し、2019年には建替組合が成立し、建替事業も峠を越した時期でもあり、東京の生活も転機を迎えていた。生まれてから就職をするまでを第一の人生、就職をして自活していた時期を第二の人生。定年後に熱海で気ままに楽しんだこれまでの時期を第三の人生とすればこれから始まる第四の人生は何をして楽しもうか?
 こうして、別荘を売却し、2019年5月に9年間の第三の人生が終わり新しい人生がスタートした。



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