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不思議夜話 17

気付けばバスを”運転”していた。
それもどうやら”乗合バス”のように思う。今では珍しくなったが、クラッチ操作を伴う2世代ほど前の車両だ。
ただ、職業としてバス運転手だという訳ではなさそうだ。経緯は定かではないが、たまたま、どこかへ行くために乗り、運転席に座ったのが”乗合バス”という感じだ。わき目も振らず、ただただ楽しそうにハンドルを握っている。

はて、自分は大型二種の免許証を持ち合わせているのだろうかと考えてみるが、どうも思い出せない。現実にこの乗合バスを走らせているという実感だけがある。無免許運転という言葉が頭をよぎった。瞬間、心臓がピクンとなる。緊張して周りを見回すが、警察関係者も見えないし、不審に感じてそうな人の動きもない。どうやらこのまま、平然と運転し続ける事が一番”バレ”ない方策だと思った。しかもちゃんと運転できているんだし。

クラッチペダルが随分奥の方にあるので、少しお尻をずらし座席に沈み込ませるようにして足を延ばさないとうまく踏み込めない。おまけにレバーは床から長く伸びたもので二段操作が必要だ。運転そのものに不自由はないものの、バス自身の動きが少しぎこちないような感じがする。眼を落すとスピードメーターもタコメーターも丸窓で、しかもアナログだ。中古のバスかも知れない。
窓外に流れる景色は随分懐かしく、いつかどこかで見たことがあるようなのだが、思い出せそうで浮かばない。青い空に、ぽっか、ぽっかと長閑に浮かんだ白い雲。遠くに見える緩やかな山並み。ココロがウキウキとしてくる。口笛でも吹きそうな気配だ。ほらそこの交差点、右に曲がるとちっちゃなスーパーが有ってさ、その横に郵便局があったはず…。
具体的な建物や道の様子は次々と思い出すのに、肝心の”どこか”が思いつかない。

エンジンが一つ咳払いをして音が変わった。
峠道に差し掛かったのか、少し登ぼり始めたように感じる。思わず口から「やれやれ」という言葉が出て、クラッチを外しギアを入れ替える。
その時である。
「小学校で下ろしてよ。」
びっくりして振り返ると、黄色い通学帽を目深に被った130cmくらいの男の子が声を掛けてきた。乗客はいないと思っていたが一人いたことになる。いわゆる半ズボンをはいているので見た目は小学生のようだが、抑揚のない命令口調だ。近頃のガキは口の利き方を知らない。
「はぁ?」
思いっきり生返事をして、上目遣いにその子をのぞき込んだ。睨み付けてちょっとくらいビビらせてやればいいんだ。
「だから、忘れ物をしたんで、”ぶんきょうしょうがっこう”の前で下ろして。」
「ぶ、ぶんきょうしょうがっこう…?」

それこそ「はぁ?」で、不意に食らった左アッパーに呆然とさせられた感じだ。2、3度「ぶんきょうしょうがっこう?」と呟いてみるが、通った学校の名前でもないし、聞き覚えもない。何かヒントになるものは無いかと焦りながら左右を見る。
いつの間にかバスは緩い下り坂に入っていた。先ほどと違って、左右には見たような、見た事が無いような、ごく当たり前の風景が流れていく。
「ほら、あそこ。」
小学生の指し示すが右手に促されて自然と目が移る。完全に形勢逆転だ。先にはゆっくりとした右カーブがあり、少しずつ校庭らしきものが目の前に広がり始めた。小学校らしくジャングルジムや鉄棒など”遊具”も見えてきた。この場はどうやら相手の方が上手だ。
「へいへい、お連れしますよ。カーブの先でいいんですよね。」
情けないことにしつけるどころか、しつけられてしまった。

ハンドルを大きく回す。今のバスは知らないが、昔のバスはパワステがなかった所為か、カーブを曲がる時、運転手が勢いをつけてハンドルを「ぐるーり!」と大回しにしていたのを身体が憶えていたようだ。えっ、身体が憶えてる?バスを運転したことがあるのか?自然と首が傾ぐ。
左に寄せて、停まっている黒のセダンの後へ真っすぐ停止する。丁度、道を挟んで小学校の通用門が見えた。真正面につけたぞ。どうだ、なかなかの腕じゃないか。「シューッ」とエア音がして乗降口が開く。小学生はこちらを見ることなく、ただ律義に幾ばくかの小銭を運賃入れに入れて下車していった。
「おい、こら、待てよ。」
慌てて追いかけてバスを降りるため、閉まった扉を開けた。

こどもが立っている筈だった。
が、扉の向こうには誰もおらず、ポツンと一人で立ち尽くすこととなった。よく見ると随分古いバス停留所の表示板がある。中ほどには時刻表があり、その下では何かの張り紙が、風にひらひらと揺れていた。雰囲気は随分昭和だ。
その時、何やら独特の匂いが鼻をくすぐった。バスの出す排気の匂いかとも思ったが、軽油の臭いではない。ましてやガソリンでもなかった。そう、ブタの背油のような、少し癖のある匂い。これは食べ物だ。こどもの頃は気にならず逆に食欲をそそったように思うが、最近は重ねた歳の分だけ胃腸も衰えたのか、こんな匂いは少し臭みとして感じるようになってきた。あと外に煮物のような匂いが混じる。そうか、向いが学校なので、もうすぐ給食でも始まるのか。メニューが気になるが、ブタの背油のような匂いが鼻の奥にこびりついて離れない。頭を左右に振ってもその濃さを増し、鼻を擦ってもまとわりつく。随分息苦しい。

”ンガーッ”という音をさせて、息を思いっきり吸ったと思ったら目が覚めた。うつぶせ寝から頭を上げると、薄暗い部屋の奥の方から明かりが漏れていた。意識が遠いところからゆっくりと戻ってくる。
「起きたの。」
その明るい方から女性の声がする。
ああそうか、有り難いことに、今日も家人が昼食の弁当を作ってくれているのだ。しかし、このまとわりつく”匂い”は何だ。まだ夢の中を引きずっているのか。それとも屋外から何か不審な臭いが流れてきているのか。彼女は気づいていないのかな。寝起きのぼんやりした頭で、フラフラとキッチンへ足を進める。

突然、”チンッ”と音がしたので目を向けると、彼女が電子レンジからシュウマイを取り出していた。

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