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感情考察①怒り

感情について記事を書こうと決めたはいいものの、いざ考えると難しい。見切り発車感満載ですか、とにかくスタート


怒りという感情が、わたしにもあります。
最近、怒らないことが美徳とされる風潮が強くなっているような気がしますが、本当に怒らないことは必ずしも良いことでしょうか。
もし、全くもって怒らない人、今まで怒ったことがない人がいたとしたら、それは素晴らしいの一言で称賛すべきことではなく、むしろ怒りを引き出す必要性があるのだと、わたしは思います。

怒りというのは、もとを辿れば悲しみから生まれる感情であると聞いたことがあります。この記事ではその論を採用することにしましょう。
そして悲しみというものは、自分を傷つけられたときに発生する感情です。それが物理的であれ精神的であれ、傷つき、失われたことに対しての慰める行為が悲しむ、ということだと考えています。

怒りと悲しみの分岐点がどこかは、わたしにもわかりません。しかし、悲しみが傷を慰める行為だとしたら、怒りは傷を未然に防ぐ行為、言い換えれば守るための感情であると思うのです。

なぜなら怒る時というのは、同時に傷をつけられている、あるいは傷をつけられそうなときでもあるからです。
わたしがこの間、怒ったことは上長の一言でした。仕事はシフト制で、日によって定時は19時だったり21時だったり。その日の私は仕事の調子が良く、ノルマも十分に達して定時で帰りました。ところが、翌日上長に「調子がいい日は21時まで残れ」と言われたのです。ムカッとはしましたが、つい怒りをこらえてしまい曖昧な作り笑いで「予定がなければそうしますね」と答えました。すると上長は「どうせ帰ってもYou Tube見ているだけだろ」と言いやがりました。もう、完全に怒りました。

時間を奪われるというのは、わたしにとって耐え難い苦痛なのです。残業代が支払われようが上からの覚えがよくなろうが、そんなこと知ったこっちゃない。しかもノルマは達成して、やるべきことは果たしています。というかYou Tube見ようが人と会おうが、その価値はわたしが決めることであってあんたに決められる筋合いはなーーい!!!

この人は、わたしのことを労働力としてしか見ていないのだと思い、人として見られていないことに傷つきました。そしてその認識が不快だということを示すために、わたしは怒ったのです。怒り方は下手くそでしたが、おそらく伝わったのでよしとしましょう。

わたしがこの時に怒ったのは、ここで怒らないと今後の理不尽な残業が増えてしまうからでした。先にも述べたように、時間を奪われることは苦痛で、それは、重なれば傷になります。さらにいえば、上長の言葉によって傷つけられたとしても、そこで言い返せなければ、自分のことが嫌いになってしまいます。自分を嫌いになるということは、自分で自分を傷つける行為ですから、なんとしても防がなくてはなりません。

指導を含めた怒りはある程度のノウハウがあったほうがよいことは確かです。なんでもかんでも怒ればいいってものでもないし、怒ったってどうしようもないこともたくさんあります。怒ることでさらに傷つくことだってあるのです。

しかし、怒ることをひと括りに忌避するのは、生物としての力や尊厳を自ら捨てているのと同じです。怒ることは、悪いことではないのです。もし怒る人がいなくなれば、それはきっと、悪い人がいなくなったけではなく、洗脳の世界。

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