自立
実家にいるときから料理が好きでした。好きといっても、毎食作っているわけでもなければオリジナルレシピを考案するわけでもないのですが。
毎日の食事は母が作っていたので、実家時代に作るものといえばパウンドケーキやガトーショコラといったお菓子がメイン。出来栄えも飛び上がっちゃうほど美味しいわけではないですし、正直、不味い時だってあります。それでもしばらく経てばまた生地を混ぜていたし、古い量りに砂糖を山盛りにしていたのです。
家を出て、お菓子どころか毎食を自分で用意しなければならなくなりました。ネットや料理本に頼りながら作り続けています。やっぱり、美味しかったり、微妙だったりはするのです。母が作ったほうが絶対に美味しい。
でも、作ることをやめて、コンビニや外食に頼る選択をする自分がどうも想像できないのです。
親やわたしが外食やコンビニを嫌っているわけでもありません。家の近くにある中華料理屋が絶品であることは知っていますし、たまになら外食も悪くない。外食やコンビニ生活が駄目だというわけでももちろんない。でも、どうも自分が、となるとしっくりこない。
まぁ経済的だし、そうしているほうが心地よいからいいかくらいに思っていたのですが、この間料理家の土井義春さんが言っていた言葉がジワジワと浸透してくるのです。曰く、「料理は自立だ」。
料理は自立。あぁ、そうかも。わたしが料理をし続けているのは、特別食事が好きというわけでもなければ、人に振舞うためでもありません。コンビニや外食も美味しい。でもそれでは親鳥から与えられる餌をもらう小鳥のままなのです。お金を払っているのが自分であろうと、関係がないのです。コンビニも外食も、自分の力が及ばないことが要因で、ある日突然供給が止まる可能性はいくらでもあるのですから。そうなれば、いくらお金を持っていようと腹を満たすことはできないし、食べねば、生きていくこともできないのです。合気道道場の凱風館を束ねる師範、かつ思想家の内田樹さんも『日本習合論(ミシマ社)』で書いていました。農業とは飢えないための集団的営みであると。
農業をすぐに始めるのはちょっと今のわたしにはハードルが高いですが、それならば、せめて農作物を「より効率的に食べられる」状態にすることくらいはできておきたい。生のままでは食べられなかったり、食べられても消化がよくない食べ物はいくらでもあります。調理法を知っていれば、出来合いの餌がある日突然もらえなくなっても生き延びる可能性は上がります。
自立能力とは一人でも生活できることです。そして生活とはざっくり言ってしまえば家を保ち、身なりを整え、飯を食べることです。手取りが今の半分になっても、コンビニやレストランがある日突然なくなっても、飯を食べ続けるためにわたしは、なんだかんだと昨日も今日も台所に立っているのです。
毎日がこんな修行僧のような思いで調理しているわけではありません。料理する過程が面白いことももちろん大きい。切ったり混ぜたり焼いたり、音や触感や匂いが楽しいし、自分で作ったという満足感は気持ちいい。
楽しいや面白いで普段は料理し、時折ふっと料理を作る意味を考えたときに自立心が浮かぶ、という感じでしょうか。
自立心というか、動物的な思考かな。顆粒だしやインスタントも使いますし、手抜きのときだっていくらでもありますが。
それでもわたしは、ご飯を作り続けて、たまにならお菓子だって作るのでしょう。今はオーブンがないから、プリンくらいしか作れないけれど。そしてたまには近所の中華料理屋に行くのです。前に食べそびれた、辛いのが苦手がゆえに一人では頼めない麻婆豆腐はいつ食べられるのかわかりませんけど。
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