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メメント・モリ

 人生というのは本当に予定通りにいかないものだ。俺が高校1年生だった頃、総合の授業で「『人生設計』をしよう」という授業があった。世の中のことをなにもわかっていない、右も左もわからない小僧たちが、一体どんな未来を組み立てられようか。土台すらできていないというのに。とにかく、世間知らずの俺たちは人生設計という超難題を課せられ、頭を悩ませながらもプリントにシャーペンを擦り続けた。

18歳 大学入学
22歳 大学卒業
22歳 有名な企業に入社
30歳 結婚
35歳 子供ができる
40歳 なんらかの役職に着任
65歳 退職
老後 自分の趣味を楽しむ

 これが俺が目指す人生のための設計か。いや、これは親や親戚を喜ばせるような人生だろう。何事もトラブルもなく、誰にも迷惑をかけず。
馬鹿な話だ。

 もしこれが人生の幸せの形というならば、俺はとても不幸な人間ということになるだろう。病気で大学は卒業できず、周りが社会で働いている中家や病院に拘束され、人生を共に歩もうと約束した彼女にはもう限界だと別れを告げられた。

 こんな俺は「不幸な人間」なのか。いいや、絶対にそんなことはないと断言できる。病気を心配して連絡をくれる友人たちがいる。家族がずっと寄り添ってくれている。別れた彼女も俺と一緒に病気と戦ってくれた。愛してくれた。俺はみんなと一緒に強く生きる道を歩んでいる。今はひとに迷惑をかけてばかりだが、その分誰かが疲れて歩けない時、俺が周りを背負って歩けばいい。

 ドイツ語で"spontan"という言葉がある。日本語としての訳はないが、その場、その時のノリで、思いつくままに、臨機応変にといったようなニュアンスだ。ベルギーの友人に「今日は何するん?」と聞くと、彼女は"Kein Plan"(ノープランだよ)と答えた。そして続けて"Kein Plan ist ein Plan."(ノープランってのがプランだね)と。 ヨーロッパのこういったspontanな考え方が俺は大好きだ。自分の思いのままに動き、その時々で出会うものを楽しむ。とても素敵なことだと思う。

 理想の人生を語ることなんて簡単だ。しかし、それよりも予定通りに行かなかった時にどういった対応をとるかがより重要ではないだろうか。俺の高校には「大衆の流れへの従順」という確かな目標があった。しかし実際従順な人間ってどうだ。悪いが、正直に言うと俺はそんな人たち面白みに欠けると思う。流れを抜け出して大胆な決断ができる人、そんなエピソードを持っている人、苦悩を笑い話にできる人は本当にかっこいいと思う。いつ病気になって身体が動かなくなるか誰にもわからないし、いつ死ぬのかも誰にもわからない。周りの意思ではなく、自分の意思に従って悔いのない選択をしていきたい。俺はそんな人間になりたい。したたかに生きたい。

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