見出し画像

来春に向けて応募作を書く

今年2023年3月末にふたつの小説をそれぞれ文芸誌へ応募した。そのあと、自分はもう純文学を書いていても日の目を見ることはないだろうから、夏に少しエンタメ寄りの小説50枚を書いてみようかと思い立った。傾向を知るために、過去の受賞作品や選評、受賞後ヒットした作家の既刊本を読んだりして過ごしていたある晩、某テレビ番組が目にとまった。画面に引き込まれた。
ほとんど1日中創作のことを考えている私は、書き始めるまでは常に小説のネタをさがしている。けれど私にかぎって、ネタというのは積極的に見つけられるものではなく、予期しないときにふと目の前に現れたりすることが多い。あの晩もそんな「予期しないとき」だったのだろう。
それから、関連する資料を読みながら登場人物やモチーフ、話の流れなど思いつくことをメモに書きつらねている。数冊の関連本を読んでいたら、50枚のエンタメを書いている場合ではないと思えてきた。構想している話は150枚でも足りないくらいだろう。まず150枚ほどを書きあげたのちにスピンオフとして50枚のエンタメも書けるだろうし、場合によっては、同じテーマ(テーマありきで純文学作品を書くのはあまり好きではないけれど今回捕まえたネタはすごく大きなテーマにつながっている)を違う側面からさらにもうひとつ別の作品も書けるかも知れない。エンタメと純文学を比べたら、やはり書き方が全く違うので、慣れないエンタメに向かうよりは、ようやく捕まえたネタをまずは純文学作品として仕上げてみようかと思い始めた。性懲りもなくまたこれまでと同じ道を突き進むのか。ため息混じりではあるが、引き続き純文学の文芸誌へ応募することを決めた。
一生懸命努力して考えているときには思いもつかなかった小説の冒頭シーンが、起き抜けにふいに頭に浮かんだりして、断片がふえていくのが私のいつもの創作プロセスのようだ。だからすごく受動的な創作スタイルなので、がんばれば成果が得られるかというとそうでもない。ひとつの作品にかかる時間とか、執筆途中に感じられる書きたい(これは書ける!という確証のない)衝動みたいなものの強さの波形が、これまでどの作品を書いた場合も似かよっている気がする。だから、私の創作は私自身の肉体的精神的なありようと密接に関係しているらしい。
今回そのしっぽを捕まえたネタに関しては、じっくり形にしようと思った。もしかしたら、四半世紀ワナビで書きものをしてきた自分に与えられた最後で最大の試練のような気もするから。(大抵いつもそう思って書き始めてはいるが……)

来春3月末までに何とか書きあげて応募を果たしたい。かなり先になるので、途中で疲れればもしかしたら10月末に最終的に締め切られるエンタメ50枚を書いてみるかも知れない。計画をしてその通りになるものでもないから、書き始めてみないことにはわからない。

巷では芥川賞候補作品が発表され、じわじわと読後の感想コメントなどSNSで目にすることもふえてきた。それにしても、人気がないと感じるのは私だけではないはずだ。みんな、もっと本を読めばいいのにと思う一方で、ゲームやってみれば面白いのにと言われてもぜったいにしないだろう自分のことを鑑みれば、まあ仕方ないよね。世の中には面白いことがいっぱいある。面白いことをするなんて余裕のある人はあまりいないのかな。本を読んだり小説を書いたりしているなんて口にしたら、好きなことやれてていいねとか、ひまでいいね、なんて言われそう。頭のなかはちっともひまじゃないのに。小説を書くことはひどく孤独で(精神的に参るという意味と、雪がしんしんと降る知らない土地にかまくらを作り閉じこもって書いていたいと思うような半分前向きな意味もある)、地道な、報われない作業であることは、書いている人にしかわからない。でもその魅力に取りつかれた私は、きっと何度選に漏れても、70になろうが80になろうが書いている気がする。

来春に向けて書きあげる作品のメモをふやしながら、とりあえずは芥川賞が決定する7月中旬を粛々と待とう。自分のことでもないのに毎回ドキドキハラハラするのはどうしてだろう。ニコ生を観ていて、あの白い紙が張り出される瞬間に訪れる興奮は何とも言えない。いつも夕飯を早めに作り、ノートパソコンを前にスタンバって井上さんの第一声を待っている。どうでもいい情報だけど、井上さんは同世代。老眼が進んでいくのと同時に彼がどんどん本を読むようになってきた過程もまた面白く観ている。

そして芥川賞が決まって、ざわざわした雰囲気が落ち着くころ、私が春に応募した作品はどうやらダメだった現状を少しずつ少しずつ受けとめていく日々が始まる。以上雑感。

万条 由衣


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?