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【創作大賞2024恋愛小説部門】青春恋愛小説『私になれ、この皮膚の体温の』第11話

11.

 二時間目の社会が終わってトイレから戻ったとき、いきなり肩をつかまれて無理やり身体を半回転させられたが、「あいつだよ!」とミカが吐き捨てるように言ったので、その握力にこめられた強い怒りは私に向けられているものでないことを知り、拍子抜けした。
「ちょっと来て、いいから来て、早く!」
 吸引力を発揮したミカのその声は、有無を言わさず私を走らせた。ミカ、待ってよ、ちょっと早過ぎ、とか言いながらあとをついていくと、職員室のまえに大きな柱があって、その裏側にちょうどふたり分の身体が隠れるだけの幅がありすべり込んだが、ミカが口元にひとさし指を一本あてるので、急に走ったから呼吸がうまくできないでいる私は、咳が出るのを必死でこらえた。
 閉じられたドアを突き破ったタカシママのその声は、廊下を通り過ぎてつきあたりの階段さえ上っていくのではないかという勢いだった。職員室となりの校長室には数人が入っているのだろうけれど、タカシママ以外はだれが中にいるのかわからなかった。
 タカシの家からロールキャベツを盗んでからたった五日後の今日、タカシママがしばらくおとなしくしているだろう、などと決めつけていた私は、完ぺきに裏切られたことを知った。
「だから何度も言わせないでください。うちの息子に悪い影響しかないんですよ、この学校は。結局、上履きと体操着を汚した、ああ、気分悪い、あの犯人も見つけられないままなんでしょう? なにやってるんですか、あなたたちは毎日生徒たちと顔つきあわせてるのに誰がやったかわからないわけないじゃないですか。だから言ってるのよ、こんなところに通わせられるわけないでしょう? え? なんですか? かまいませんよ、私がなんとかしますから。なんとかできないことなんてないんですよ。だからいやだった、公立学校なんてろくでもないってわかってたけど、私立受験したのに叶わなかったんだから仕方ないって思いましたがね。弟は受かりましたよ。ちゃんとした学校に通っています。でもタカシは……それだって足をひっぱる子がいたから落ちたんですよ。あのカナ子って生徒がいるでしょう? 安藤商店のところの娘。あの子ったらタカシに悪いことばっかり教えて、あの母娘は要注意ですよ。危険人物です。先生たちだってご存知でしょう? あの店で売ってるお菓子にはたんまり添加物が使われてるんですよ。それなのにたくさんちっちゃい子どもたちが買いに行ってる。信じられます? 改善? そんなの信用できっこないですよ。私はごまかされたりしませんよ。でもねタカシはね。素直な子だから同情してるんでしょうね。母子家庭で、かわいそうだからってねえ」
 ミカはずっと私の顔をのぞき込んでいる。
 私はポケットから七色玉をふたつ取り出してひとつを自分の口に投げ入れ、ひとつをミカにあげたが、ミカはそれを本当に鼻についてしまうんじゃないかというほど近くに持っていきまじまじと見ていたけれど、遠くに投げて捨ててしまった。あっと言った私の声が、職員室まえの廊下にこだました。ふたりでひとまわりくらい小さくなって息をひそめる。
「やっぱ、ムカつくよな、あの人」
 このあいだ同じような言葉をミカから聞いたときより、ムカつく感情がこもっていなかった。堅い壁にも、生身の身体にもすっと侵入するほどやわらかい声だ。さっき私の肩をつかんだ握力にこめた怒りを、みじんも感じさせない力で、背中を触れるか触れないかというくらいの距離から私を押して「行こう」とつぶやいた。
「おい、きみたち、授業はじまってるぞ。何年生だ?」
 階段の途中から声をかけてきたのはM先生だ。美少女系中三女子をストーカーしてるという噂を流され、汚名返上のためだろう、放課後は吹奏楽部に熱血指導しているのをよく見かける。
 噂はこわい。ちょっとアンテナを張るくらいですぐキャッチできる。噂が本当かどうかなんて関係ないのだ。自分が流したのではなく、自分ではない他人から聞いたのだという事実が加えられるだけで、人を傷つけるための正当な武器になる。
 無視してふたり並んで歩き出し、ミカは言った。
「ねえ。添加物てんこ盛りってほんと? はい、これ」
 添加物てんこ盛りのグミキャンデイを、私の手のひらに押しつけた。
 七色玉がまだ口の中で溶けている途中だから、ところどころが鋭い刃先のようになって舌を痛めているのをたしかめながらゆっくりと転がしていたので、もらったグミを七色玉とは反対の頬の内側におさめたつもりが、結局重なり合ってふたつともいっしょに噛み砕いてしまった。
 昇降口を通り過ぎるときにふと横を見ると、列を成した下駄箱の陰にすわり、太ももに肘をついてぼんやり校庭を眺めているタカシがいた。ミカは気づいていなかった。
 言いたい放題の母親を自由にさせておいて、自分はそんな片隅に隠れ、自分こそ言いたいことがあるはずなのに、いつまでもじっとして動かない。
でもきっとタカシにとっては、ゲームのコントローラーなんかで頭を殴ることが最大の反抗なんだ。そんなことしかできなかったら、なにも変えることができない。
 私たちはやはり何もできないのだ。
「ずっと、いっしょう、そうやって、ママの部品になってればいいんだ」
 タカシに言ったつもりだったのに、自分の声は自分の腹にも響いた。
「えっ?」
 ミカが振り向こうとしたので、追い抜きざまに乱暴に手をひっぱって前を向かせながら、タカシのほうに向かって叫んだ。
「おまえはおまえだ、って、言ってるのに!」
 私は母とはちがう生き物だって、わかってるのに!
「ええっ? カナ子、なに言ってんの? どうしたの? おまえってだれよ」
「なんでもないよ」
 のめりそうになるミカといっしょに、ひとりの生徒も授業を聞いていなくて、皆好き勝手なことをしている大音量の教室に飛び込んだ。

12.最終話へつづく



#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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