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【創作大賞2024恋愛小説部門】青春恋愛小説『私になれ、この皮膚の体温の』最終話

12. 

 昇降口のところにすわっているのを見かけたあの日以来、タカシは一度も学校に来ていない。
 それなのに首つりのまねごとをしたナツミは、今日も二年A組の教室にやってきた。バスケ部の女子と向き合ってすわり、時折、キャハハ! と大げさに笑いながらしゃべっているが、首つりの後遺症なのか、首から下、組まれた両足の指の先まで、顔以外のすべてが九十度ひねられ、まっすぐに私へ向けられている。
「だって、おかあさんがねえ!」
「おかあさんがさあ!」
 途中で、聞こえよがしに投げられるその言葉は、鋭い欠片となって私の心臓のあたりを突き刺す。クラスメートがたくさんいっしょに詰め込まれている学校のこの教室で、笑いながら「おかあさん」という叫び声を私に対して発するなんて、残酷な行為だ。ナツミをぜったいに許せない、と思う。
 私の靴の中に画鋲を入れていた犯人は、ナツミが首つりのまねごとをした日から姿を消した。なんとなくその正体がわかりつつあった。きっと、画鋲に変わる道具を見つけたということだろう。画鋲なんかよりも私を追いつめる「おかあさん」という言葉を発見したのだ。自分じゃない他人たちが吹聴する噂から抽出された、人を傷つける正当な武器。
 胸に刺さった欠片より、さらに尖った視線をナツミに向けた。そのときだった。
「あいつ、ほざいてんじゃねえよ」
 いつのまにか私のとなりに立っていたミカが言った。
私がミカを見ると、私の顔を穴のあくほど見てくる。私は一切の感情を捨て去り、たぶんミカに対してずっと演じてきた「カナ子」の顔をしようと努力する。
 意地でも表情を変えるものかと、まばたきもせずにじっと見返していて、だんだん目が痛くなり、鼻の穴が膨らんできたが、それでも笑ったりしたらぜったいに終わる、なにが終わるのかわからないけれど、終わらせてはいけないという強い気持ちをしっかり持って、なお一層目を大きく開いた。
 ミカは「負けた」とでもいうように、眉毛を上にあげて笑顔を見せたかと思うと、くるりと背を向け、いつも仲良くしている女子を追いかけて、教室を出て行った。
 今日、タカシの家に行こうと決めた。
 六時限目が終わってすぐ、ホームルームが始まるのを待たずに、画鋲が入っていない靴をはき、走って家に帰った。母は店の奥で、いよいよ受験モードになってきた中三生たちに勉強を教えていた。二学期の定期テストの前なので、中三生は帰りが早い。
 今日は朝から曇り空だったので干している洗濯物もないから、家に着くなりタンスをさぐった。魔女の白い衣装を見つけたとき、思っていたほどの白さではないことに少しだけ落胆した。暗闇で見えたこの白い布地は光沢を放っていたが、そうではなく、くすんだ白色をしていて、どちらかというとベージュに限りなく近い白色なのだった。
 持ちあげたらふんわりと軽くて、それなのに真綿のように膨れたので、スーパーのビニール袋に入れるのに、ずいぶん力を入れて押し込まなければならなかった。こんなところを母に見つかったら大変だ。魔女の本性を私が知っていることがバレてしまう。ビニール袋の口を急いで、だが、しっかり結ぶ。さらにそれを、空にしたスクールバッグにしまった。
 インターフォンを鳴らすとタカシが玄関に現れた。タカシママはPTAの集まりのために学校に行っていて、留守だった。
「すごく久しぶりだね」
 と言うと、黒いTシャツについたゴミをとるふりをして、私から顔をそむけた。
 タカシの机にはノートが開かれていて、ページにおびただしい数字と記号のやりとりが書き連ねられていた。それらがぷっつりと途切れた位置に、シャープペンが倒れている。
「勉強、してたんだね?」
「このままだと、内申が見込めないから、私立高校を受験することに決めたんだ」
「東高に行って、またバスケやりたいって言ってたのは?」
「東は、内申高くてムリ」
「でもまだ中二だよ。あきらめるの、早過ぎない?」
「内申点は急にはあがらないって、塾の先生が言ってた」
「ふうん」
「それに……」
 タカシは突っ立ったまま、本棚に視線を向けた。『スラムダンク』が一冊もなくなっていた。
「バスケ、中学でやってないから、レベルについていけないし」
 だから『スラムダンク』全巻処分しちゃったんだ、という言葉は胸の内にしまった。古本屋で見つけては買い足して、やっとそろえたんだって、あんなに目を輝かせていたのに。心残りがないはずはなかっただろう。処分したのは、タカシママか。そこには替りに背表紙からして真新しさが見て取れる参考書や問題集らが、どんなものすごい地震がきてもこの本棚だけは倒しません! という頑丈さでおさまっている。
「ちょっと待ってて」
 もう少しで、今日、ここに来た目的を忘れるところだった。部屋を出てドアをしめた私は、その場で制服を脱ぎ始めた。
 下着一枚になって、スクールバッグからクッションみたいに膨らんだビニール袋を取り出し、結び目が固過ぎて取れなくて乱暴に袋を破いたとき、階段の下にお父さんがいるのに気づいた。驚いて手が止まった。
 お父さんはこちらをじっと見ていて、私と目が合っても逸らすことはなかった。怒った顔も、困った顔もしていない。私は猛スピードで白い服を頭からかぶった。もう一度階下を見たときには、お父さんはもういなかった。
 背中に両手をまわしてチャックをしめようとしたが、途中までしかあがらなかった。身体に馴染むように、肌に張り付いた布地を整えた。皮膚と生地のあいだにわずかながら隙間ができて、ウエストから下のスカートにあたる部分は、わざとらしくないちょうど好ましい程度に膨らんだ。少しだけ大人になった気分だ。
 魔女の衣装に着替えて部屋に戻ったとき、タカシは机にかじりついて数学の問題のつづきを解いているようだったが、私のことを見た瞬間、すばやく息を吸って声を飲み込んだ。目を丸くあいている。
「なんだか、ウェディングドレスみたいじゃない?」
 と言って、上目遣いしてみる。いや、この見つめ方は大人のそれとはちがう。母はこの服を着るとき、どんな表情をしているのだろう。ああだろうか、こうだろうかと想像して、眼球をあちらこちらと泳がせてみる。
 もしこれがウェディングドレスだとしたら、最初に身に着けたのは、やはり父と結婚式を挙げた日だろうか。魔女になってたったひとりで笑っているより、もっともっとうれしそうにしていたのだろうか。その笑い声をどこかに追いやってしまったのは、父なんだろうか。もしかしたら私ではないのか。
「カナ子、泣いてるの?」
 タカシが椅子から立ちあがった。
 自分の目から温かい水が流れ、頬を伝い、顎から落ちたしずくが、限りなく白色に近いベージュ色を地味でちっとも素敵ではない薄茶色に染めてしまっていて、そのことがなおも、私をせんなくさせるのだった。
 母のように笑いたかったのに。この服を着て、大人っぽく、声が静かにあたりに浸透していくような笑い声をあげたかった。
 タカシが近づいてくる。
 こんな顔を見られたくない。
「…… き が え て く る ……」
 声は言葉になったかならないか、わからなかった。
 突然、部屋のドアがあいて、タカシママが叫び声をあげた。
「ええっ! ちょっと! なんなの!」
 私の腕をがっしりとつかんで引きずるようにするから、もう少しで階段を転げ落ちるところだった。
 玄関から追い出されても、タカシは来なかった。
「男の部屋に勝手にもぐり込むなんて、母娘してふしだらなんだから!」
 突き飛ばされて玄関先の石に足が引っかかり、とっさに両手を前に出したが足元がすべってうつぶせに倒れてしまった。ウェディングドレスの前身ごろは、私の上半身と地面のあいだで潰れていた。ふしだら、とは、きっと母と弁護士の不倫のことを言っているとすぐにわかった。
 ああ、ウェディングドレスが汚れちゃう! そう思ったが遅かった。見るとべっとりと土がついてしまっていた。雨が落ちている。あたりは十分ぬかるんでいた。タカシママは興奮していた。立ちあがろうとしたとき、廊下に脱ぎ捨てたままにしていた私の制服をタカシママが投げつける。この人はただのおばさんなのに、超絶、強大だ。私はタカシがいるだろう二階の部屋を見あげて、窓をじっとにらむことしかできなかった。タカシのことを守れるのは自分だと思っていた。ものすごい勘ちがいだったことを思い知らされた。タカシはすでにこの人に十分守られていたのだ。
 タカシママは、タカシを押し込め、お父さんを飾っている空間に自分の身体をねじこませて、大きな音を立ててふたをした。あたりの空気が振動し、一瞬時間が止まった。
 次に耳をつんざいたのは、急に激しさを増した天上から降り落ちる雨の音だった。痛いほど顔を打つ。まるで空が割れてしまったかのように大粒の水が落ちてくる。ウェディングドレスどころか、制服も、スクールバッグも靴も、私の身体もすべて洗われていく。
 寒い。水をたっぷり含んだウェディングドレスの生地が皮膚にぴったりとくっついて、体温を奪う。寒い……私は地面に尻をついたまま自分の両腕を強く抱きしめた。もうなにをするという気も起きなくて小さく縮こまる。温かかった。私の全身の皮膚を感じ、体温を感じた。
 地面に七色玉が落ちていた。べっとりとした土に埋もれるようになって、七色玉などという名前は似合わない、ただ甘い毒の固まりと化していた。膝を抱える両腕に力を入れた。胎児みたいだ、母親の子宮に住んでいる。この水は羊水か?
 いつだったか、保健の先生が自分の出産のときの話をした。羊膜が破れて羊水が流れ出た、早く赤ちゃんを取り出さないと死んじゃうって思ってとても不安だった、と言っていた。
 今まさに、自分は羊水にまみれている胎児みたいだ。顔じゅう水だらけで、息を吸えばかなりの水が、口から、鼻から入って、呼吸困難になりそうだった。
 保健の教科書に載っている胎児のイラストを思い出す。
 恐れから身を守るように両手を胸のあたりで交差させ、鎖の先にさげられた十字架を抱えているのかと思ったのは誤りで、鎖に見えたものはへその緒だった。そんなものが母体とつながっているというのも動物じみていて生々しい。下肢を膝小僧のところで折りたたんだ、あんな完璧なスタイルで、すっぽり子宮におさまっているというのは本当だろうか。とても信じられない。
 でも私はもう胎児ではない。命が鎖でつながっていた母体とは切り離されて、すでに十五年になろうとしている。母と私は母娘だけれど、ひとりとひとりだ。
 身体が面白いほど震える。
 さ、さむ、い……さむ、い……さむい、寒い!
 雨の圧力に抵抗するように立ちあがった。私は右足をゆっくりとあげて力をこめると、毒の固まりを踏み潰した。何度も、何度も。そのたびに泥水が飛び散った。こんなもの、もう必要ないんだ! 甘い毒の固まりはこなごなに砕け、土色の水へと姿を変えていった。
 その中に、膝を抱えた胎児の死体を、たしかに見た。
 まもなく、私の内部から生暖かいどろりとしたものが排出された。とても久しぶりの感覚だったけれど、生理が来たんだ、と思う。
 それからあてもなく歩きつづけたつもりなのに、いつしか私は石宮ミカの家のまえに来ていて、足を止めた。ちょっとそこを通ったから寄ってみたんだ、なんていう言葉が口から発せられるまえに、胸を突き破ってしまうのではないかというほど熱い巨大な固まりが、のど元まで迫りあげていた。
 玄関ドアが開いてミカが出てきた。すばやくミカの首に両腕をまわして、びしょ濡れの自分の身体に引き寄せるようにした。
 ミカは何も言わなかった。だから私も何も言わなかった。


this is the end of the story,
thank you for reading !


#創作大賞2024 #恋愛小説部門

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