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第171回芥川賞候補作の感想と受賞予想

私には美辞麗句が書けない。でも、しがらみがないから正直には書ける。そんなふうにして吐いた身勝手な感想など、作り手にとってはなはだ迷惑なものかも知れない。芥川賞受賞を予想するだって?ワナビのくせしておこがましいにも程がある……そんな声が聞こえなくもない。腰が引けるのなら書かなければいいのだが、私にも目的がある。この記事を読んでくださる方は、きっと芥川賞に興味があるのだろうから、読んでみたい作品があればぜひ本を買おう。そして読んでなるほど良い作品だと感激したり、読んだら万条が書いてたのと全く違ったじゃないかと憤慨したりしてほしい。純文学を、出版界を盛り上げる一助になればこの記事を書いた甲斐があるというものだ。

以下、敬称を省略させていただきます。
並びは読み終えた順番です。


『サンショウウオの四十九日』朝比奈秋

☆感想

瞬と杏の父である若彦は、まだ赤子だった伯父の勝彦の腹から産まれたという衝撃の事実に打ちのめされ、そんなことが本当にあるのだろうか?という疑問とともに読み始めた。しかし衝撃はそれだけではなかった。瞬と杏の語りにより、ふたりの状況がだんだん分かってきて私は唸るしかなかった。下半身がつながった結合双生児ベトナムのベトちゃんドクちゃんのことは知っている人も多いだろう。産まれたふたつの生命を「結合双生児」という堅苦しい医学的用語で定義してしまうのははばかられるが、状況が少しずつ違った「彼ら」が他にも存在するだろうことは想像に難くない。瞬と杏の稀有なケースを、伝えられるまま従順に受け止められずにいたが、いつのまにか瞬と杏の心の声に熱心に耳を傾けていた。ひとつの体にふたりの意識が宿る。あとからその存在を認識された瞬が体の感覚をなくし死を意識するくだりには、生きながらにして自身の死を目撃するような切迫した悲壮感があった。とはいえ、一人称の「わたし」と「私」をそれぞれ使い分けるといった語りの形式は少々作為的に感じられ戸惑いも感じた。また、ふたりの語りだけで「結合双生児」にリアリティをもたせるのはさすがに限界があるのだろう、杏がパニックになって脳内で語るという設定で医学的情報が提供されるのも、少し不自然な感じを覚えた。そういう部分で、医師である作者の姿がちらついた。しかしながら、流暢な文章によってリーダビリティが寸断なく発揮されている。そのため、この類まれなる運命に翻弄された彼女たちの呼吸はとても生々しく、210枚を一気に読んだ。


『海岸通り』坂崎かおる

☆感想

ウガンダ人のマリアさんが物語の中心なのかと思いながら読んだが、どうもそうではないらしい。「わたし(=久住)」の過去からの脱却、あるいは過去を取り戻す物語だろう。その久住のひとり語りには体言止めが多い。それをおざなりとは感じられず、むしろ久住のぼくとつなキャラが反映されていて好意的に受け止めた。それにしても読み進めるうちに分からないことが増えていく。当然知りたくなる久住の過去や、そこから繋がる現在のこと、例えばサトウさんとの関係などは隠される。「作者が書くべきこと」と「書かなくてもよいこと」について考えさせられながら読み進めた。書かれないから、読み手は想像をかきたてられ、読後もミステリアスな印象が尾を引く。引き算の美学ということだろう、結果として理知的で締まりのいい物語になった。「海のある町だが、……海のない場所で暮らしてきた」わたしーどうやら「海」は「わたし」にとってよほど葛藤をもたらすものらしい。「欲しい名前があるのだけれど、それはきっと誰も知らないから、わたしも口にしない」の部分を読んでいたら落涙した。え?なんで?ここは泣くところなのか?不覚だった。謎が多かった「わたし」のことが、いよいよラストになって何となく分かる。はっきり書かれないから不足は想像で補うしかないのだが、ミステリーを読んだときのように疑問が次々に解き明かされる、何となく。この完全ではなく「何となく」というところが引き算の美学なのだろうが、こんなに答えを知りたい芥川賞候補作品に出会ったのは初めてかも知れない。落涙したし、ミステリーを読んだみたいに面白かった。また、「ぎょうこう」「らそつ」などなど、小説に登場する言葉のいくつかを辞書で引くことになり、作者の言葉に対するこだわりも垣間見られた。久住のファーストネームについてもそのものズバリ表記せずに、蛇の意、生まれ年をヒントにつけられたなんて指摘されたら、詮索せざるを得なくなる(久住の姓名の名の部分は、この作品の切り口「ニセモノ」「ホンモノ」にも通ずる最も重要な鍵のひとつだ!)。読んだあともしばらく謎解きを楽しむことができて、まんまと作者の思う壺にはまったことに気づき、ほくそ笑んだ。

『バリ山行』松永K三蔵

☆感想

熱量を感じた作品だった。正直、会社の事情にはあまり興味がなかったが、社員には敬遠されがちの妻鹿さんが波多の窮地を救ったあたりから、私はすっかり妻鹿さんに惚れ込んでしまった。自分の仕事はきちんとやり遂げ、会社の人間関係や経営状況にさえ無関心を装う妻鹿さんー聞くところによると父親と福祉作業所に通う弟を養っているらしいではないかーがとにかくカッコいい。波多が妻鹿さんとふたりでバリ山行するところは圧巻だ。ほんの序盤で波多が気持ちを昂らせて妻鹿さんに握手を求めるも、その先に待ち受けていた危険にビビり、気持ちが萎えながらも必死についていくのだが……山のアップダウンや景色が変化するのに合わせ、波多の、妻鹿さんとバリに対する気持ちは何度も急降下と急上昇をくりかえすのだ。そして最後には心に溜まっていた妻鹿さんへの、バリへの気持ちが炸裂して……面白い。とにかく読んでほしい。
ひとつだけ、いやふたつ、気になったことがある。ひとつは山のトイレ。子供の粗相のくだりは省く(シモのことには触れない)か、せめて持ち物リストに携帯トイレでもちょろっと入っていれば安心したかも知れない。まあ、どうでもいいことだけど。もうひとつは、波多の育児参加について。手がかかる幼い子供を育てる共働き夫婦のはずなのに、休みをとった雨の日にフルタイムで働く妻が子を保育園に連れて行く?せめて波多くん、連れて行ってやれよ、奥さんできすぎ!と思った。
最後の1文に鳥肌が立つよ。

『いなくなくならなくならないで』向坂くじら

☆感想

朝子にはっきりものを言えない時子にイライラし、父と母、とくに母の愚かさにイライラしながら読んだ。麻央子に子どもが産まれたら何がどうして手遅れなのか母の思いはすごく勝手なものであきれるしかない。ところどころ分かりづらい表現(例えば、銭湯での椅子の捨て置かれ方の描写や、「猫だまし」みたいな冷たい風……など。ラストの床ころころと言い、もしかして相撲ファン?と思っちゃった)があって、立ち止まらねばならなかったのもイライラに拍車をかける。作者の独特な持ち味なのだろうけど、すんなりとは読めない。とはいえ、朝日に対して右に行ったり左に行ったりしている時子の気持ちにいつのまにか寄り添って読んでいた。日頃、自分の気持ちに折り合いをつけて葛藤をやり過ごし、勝手にストレスをためているのはきっと私だけでないはずだ。だから(作者の目論見どおりに)イライラしながらも中盤は面白く読むことができた。ラストは、どうしていいか分からない時子に飲み込まれてしまった作者自身が悩み、混乱したままを文字にしてしまったのではーそんな印象を受けた。せっかく興味を持って読んできた高揚した気分が一気に萎えた。
『海岸通り』が「書かない」ことで読み手に想像させる、すなわち引き算の美学を巧く利用した作品だとすれば、こちらはとことん時子の内面を書いてジリジリする感覚を読み手に与え続ける。純文学といってもいろいろなタイプの小説がある。どちらがいいということではなく、その企みが成功して読み手に届いたか否かが重要と思われる。そのためにもラストを安易に流すようなことがあってはならないのではないだろうか。そこのところ、あまり読み手を信じない方がいいだろう。

『転の声』尾崎世界観

☆感想

主語が全く出てこないので、いったい誰が語っているのか分からず読み始めは苦しかった。少し進めるとその正体は「 GiCCHO の以内くん」だと分かる。
転売されて価値が上がったり下がったりするのをアーティストの以内くんは気にし過ぎてエゴサせずにはいられなくなり、歌や演奏の質を上げることよりも自分の市場価値を上げることの方に固執する。ボイトレや整体、心療内科などいろいろ試しても喉の不調は良くならず、それでも歌うことを止めずに、あろうことかステージで声が出なかったり、歌詞がとんだりしてしまう。なのに、することといったら転売ヤーとの取り引きだったりエゴサだったり。SNSには心ない声も多く、以内くんは相当病んでいるのかも知れない。本来は楽曲やアーティスト本人に注がれるファンの「好き」もどこか歪んでいる。極めつけは無観客ライヴ、それもアーティストがステージに立つこともしない「エセケン式究極の無観客ライヴ」だという―これには卒倒しそうになった。「チケットの波形をNFTにして配布し……その部分を音として再生できるシステム」に至っては、それに価値があるのかもう全く分からない。小説というより、「自身と自信を失い、本質が伴なわないプレミアの亡霊を追いかけるあるアーティストの記録」を読んだみたいだった。
「以内さん声大丈夫かな」こそがファンの声だと思いたいし、それを定価的な顔と言われたら……でも、何かが伝わったぞ。SNS上で言いたい放題のファンやその他大勢の輩たち―例えば私が今書いているこのnoteの記事みたいなものでさえ、作者を傷つけているのかも知れないと思ったら、はっとした。好き勝手に書いて本当にごめんなさい。

第171回芥川賞受賞予想

候補作のラインナップを目にしたとき、潮目が変わったと思った。ここのところ、あるテーマが続けて特集されたりして食傷気味だった。今回は予想するのがむずかしそうだと予想(笑)したが、5作品を読んでみたら割と気持ちが固まるのは早かった。さて、予想。
私なりの基準は、本命=受賞する可能性が最も高い、対抗=受賞する可能性が本命より少し低いが有力視される、穴=3位以内に入る可能性があり注目される、くらいの意味にとって頂けたら幸いです。敬称を省略させていただきます。

↓ ↓ ↓ ↓ ↓


本命  『バリ山行』松永K三蔵

対抗  『サンショウウオの四十九日』朝比奈秋

穴   『海岸通り』坂崎かおる

そして、次の2作受賞になるのではないかと思う。

☆松永K三蔵『バリ山行』
☆朝比奈秋『サンショウウオの四十九日』

小説の中の登場人物に最も熱い思いを抱かせてくれたのが『バリ山行』だった。あの状況で夫婦関係が良好なのはいかがなものかという不満もトイレ問題も、登場する社員が多すぎないか疑惑も、その熱に溶けてしまうほどのものだ。ラストで波多と思いを共有し、私も妻鹿さんの姿を追い求めていた。『サンショウウオの四十九日』を受賞予想作品に加えたのは、「新潮」の旧編集長、矢野優が最後に手がけた5月号の表紙を飾ったことに鑑みた。「朝比奈秋」の作品は進化を遂げていると感じるし、「坂崎かおる」はスゴ腕の持ち主で活躍の舞台がすでに広く、今回芥川賞を受賞しなくてもすでに箔は付いている作家であることは間違いない。ご活躍を心から応援しています。
今回候補にあがったすべての作家、作品に敬意を表して筆を置きます。


万条由衣

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