私をつくる時間について

最近の私は、人に流れる時間を見たいと思っている。その人に積み重なって現在まで連なっている「時間」の存在に意識を向けることが最近の課題です。(ライフヒストリー収集上の留意だけでなく、普通に人と会話するときの心の持ちようみたいなもんです)
その時間とは年齢と必ずしもイコールではなくて、どちらかというとその人の過去から現在に至るまでの経験なのかなと思っている。

ローカルマーケットの猥雑さ、無秩序さは私も好きだけど、「これこそがインド!好き!」とは思わない。インドにいて心を動かされる光景に出合ったとき、どこか懐かしさを感じることがある。日本で経験した出来事やどこかで見た光景・風景、母や祖父たちから聞いた話を思い出すこともある。
私は、インドのことを好きになる瞬間、同時に日本、いや私がこれまで過ごしてきたあらゆる街と日常を愛おしく思う。

結局、今の自分を形作っている時間(経験)のほとんどが、当たり前だけど私の半径何メートルのレベルのところで発生した物事に結びついている。
だから、日本という括りよりもっとミクロでローカルな、柏市や板橋区や東浦和や川口や渋谷、最近じゃ田町や西荻窪の街中の日常を、忘れることも否定することもしたくない。というか、できない。

そうして今のインドでの生活も、数年先か数十年先か知らんがどこか別の場所でふと思い出して懐かしくなるんだろう。それが当時最悪の状況で、「二度と経験したくない」と思うほどのこと(例えば水にあたってお腹壊して列車の中でウン○漏らしたあの経験も!)であっても、口に出せる記憶であるという時点で、既に美化されて多かれ少なかれ懐かしさを伴うようになっているのだ。
(※ただ、語ることができない記憶というものは確かに存在する)

今が過ぎ去っていくこと。もともと「今」なんて時間は存在しない。今は常に過ぎ去っている。
そうやって過ぎ去るいくつもの「今」が、積み重なって層になって私たちをつくる。そこに結びつくのは場所、というか空間だ。その時間と空間を否定して、今の場所こそが全てであるようにふるまうことに対して違和感がある。

人と時間。街と日常。これは何かのキーワードのような予感がしていて、もっと考え続けたいと思っているところですよ。

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