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書くことを恐れない

しばらくnoteとブログを全く書かないでいた。半年以上か。書くことが好きでいながら、人前に書いたものをさらすのは恐怖を伴う。無理をする。取り繕う。素直な文章ではなくなって、書くこと自体が重くなる。それを繰り返して、なんだかいつもnoteをうまく書けないでいた。

昨日、指導教官に論文(の切れ端)を送った。自分が心の底から書きたいように書いた、ピアレビュー相手からは「論文らしくない」と評価された、そんな論文。
怖くて怖くて泣きながら送信ボタンを押して、押した後も涙は止まらなくて震えて泣いた。恐怖と不安からだった。

私にとって「文章を書く」のは自分の生の証明のようなもの。 食べることや息を吸うことと同じくらい言葉を紡ぐことが大切で、紡ぎ出した言葉たちが大好きだ。
そんな大好きな言葉たちを否定されたら深く傷つくだろうし、もしかしたらショックで死んでしまうかもしれないと、そんな恐怖に包まれていた。

怖いのは、文章として書き表すことだけじゃない。
自分の思ったことや見えている世界、「何か」を言葉にして誰かに伝えることが、とても大好きで、とても怖い。
美しいと感じた光景を伝えようとしても伝わらなかったら。否定されたら。そしてもし万が一、誰かを言葉で傷つけてしまったら。
だいたい、世の中には「誰も悪くない」という出来事が多すぎる。それぞれに事情のある複雑な事柄が多すぎる。誰も悪くないのに私はこう思った、こうしてほしい、と不満や希望を伝えることが、とても怖い。言葉をとても愛しているけど、言葉が武器になることが怖い。傷つけることも傷つくことも、どちらも恐ろしくて仕方ない。

知人のライターは私に「人を殺す気で文章を書け」と言った。その言葉自体はとても格好良いと思う。そのライターの信念も理解した。でも私にそれはできないと、少し距離を置いてその言葉を眺めていた。
私は誰かに「あなたはそれでいいんだよ」と言ってあげられるような、その人が自分の生の全てを肯定できるような、そんな文章を書きたいと常々思っている。それなのに恐怖で、自分の文章を人に読んでもらうことさえできないとは。
最近になってわかってきた。彼は「自分の文章を守り抜け、人の指摘なんか気にするな」と、そう言いたかったのかもしれない。みなそれぞれに哲学を持っている。
私は私の哲学をもって、この恐怖を乗り越えなければ。

今朝、先生から返信がきていた。
「よく書けている。はやく続きが読みたいのですが。」と。
筆の遅い私にあきれながらもほめてくれている、苦笑いをしている先生の顔が浮かんだ。
もっと、書こう。

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