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少しでも多くの気持ちに気づくために
SNSで度々発生する議論を見るたびに
「私は議論を"読んだり聴いたりして自分の中で視野を広げて思考を深めたり、それによって今までの自分の至らなさに気づく"ことは好きだけど、"自分から議論を持ちかける"のはそんなに得意じゃないのかもしれない」
と思うようになった。
「これは〇〇なのだろうか?」という投稿をしたことはあるけど一個人の意見・気持ちを吐き出した感覚だったかも。
"正しさ""正しくなさ"
体型の話。どんな視点であれ、いくら褒めていたとしても、私は一切、NO!!人の体型に良し悪しジャッジする権限は私にはありません!!
発言前に時間をかけて考えること
ものごとを白と黒にはっきり分けず、階層やグラデーションのように一度捉えてみること
全ての人にその人なりの言い分があること
気をつけてる
物事って一言じゃ全然語りきれない。もっとこう、深さ・階層がある。だから焦らず時間をかけて思考し、話していった方が少しでも誤解を避けられると思う。
言葉って対面で話しても伝わりきらないことが多いのに、文字だともっと伝わりきらない。文字には書かれていないバックボーンや感情の含みまで汲み取ることは相当難しい。言葉が巻き起こすのはいつもすれ違い。
「耳を傾けられない苦しさ」身をもって体験してきたつもりで本当に苦しいことだから、私は耳を傾けるひとでありたい。実際にその人に話しかけに行かなくてもいいけどとにかく、耳を傾けること。理解できなくてもいい。遠巻きにでもいいから耳を傾ける。
非難、批評、個人の主観的意見、の違い。
様々な根深い文化があり、それを通っている若しくは勉強しているからこそその人たちから出てくる非難というものはこれまでも今後も絶えないわけで、上がったリアルな声に耳を傾けた上で、自分の思考を深めていきたい。「なんかごちゃごちゃ言ってるから無視しよう」という問題ではない気がする。
平和を望んでいる。からこそ、思考を止められない。
〇〇おじさん、〇〇おばさんという造語を作ってしまうのは本当に良くない、デメリットしかないと思っている。
色んな人の意見を聞いて「そういう考えもあるんだな」と自分の中に取り入れるよう心がけているけど、元々持っている自分の意見もわりかしブレないから、色々意見取り入れすぎて自分の考え見失うことはあまりない
推し活してると自分の持つ加害性にどうしても向き合うことになり、それが毎度苦しい。感情や思考を言葉にすると推しや誰かを傷つけるかもしれないだとか、相手を守るべき場面で良かれと思って発した言葉が余計だったかもとか。なんでこんなに勝手にひとりで苦しんでるんだろう。滑稽だね。
相手を大切に思うほど自分の加害性と対峙することになり苦しい。自分はいつだって加害側だという危機感が常にあって、苦しいけどこの危機感は放棄できない。
言葉にするってほんとに魂削ってる感じがする。言葉にするのが楽しくて生き生きと言葉を紡いでいるというよりも、自分の人生に感情の記憶を彫っている感覚。刺青のように痛みを伴う。
とても近い存在の人に、言葉を懸命に紡いで苦しさを説明しても全く理解しようとされなかった経験から「言葉にしてもこんなにも伝わらないんだから、言葉にしなければ尚更何も伝わらない」という思考がこれまでの自分を形作ってきたけれど、大切な人を傷つけたくなくて、言葉を放棄したくなるよ。