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【3/5】彼女の背中

彼女の背中ー『何でもないふりして生きているけれど』3/5

 残りの人生すべての希望を息子に託しているかのような母親に育てられた俺は、空気を読むのが何よりも得意だ。読むことができれば、空気を和らげるのなんて朝飯前。中学のサッカー部でも、高校の軽音楽部でも、大学の時代のアルバイト先でも、今勤めている会社でも、誰に聞いても皆、俺のことを「お調子者のムードメーカー」と言うだろう。

 そんな人生を二十五年も送ってきて分かるのは、空気が読めてしまうと壊すのは難しいということだ。相手が望んでいるものが分かるのに、分かっていながら違う道を選ぶのはとても苦しい。だからというわけではないけれど、高校も大学も親と先生から勧められた学校に進学したし、就職先は神奈川の実家から遠く離れることがないよう、東京に本社があって全国転勤のない会社を選んだ。きっと俺は母親にとって、自慢の「良い息子」だろう。
 だからと言って、自分の人生を苦痛に思ったことはなかった。いわゆる「社会のレール」みたいなものの上をまっすぐに歩いてきたけれど、幸か不幸か、レールを外れてまでやりたいと思えることに出会わなかったから。ただ、心からやりたいことのために人とは違う道を選んだ高校の同級生を見る度、そういうものが何もない自分を、心の奥でずっと恥ずかしく思っていた。
 
 そんな俺にも一度だけ、強く心が惹かれて全力で手を伸ばしたことがある。大学時代アルバイトをしていた居酒屋で、一目惚れした二つ年上の先輩だ。色白な肌に、艶やかな黒髪。決して派手ではないのに、綺麗な顔立ち。初めはそんなドストライクな見た目に惹かれたけれど、人の輪のなかでしか自分を確立できない俺と違って、一人の人間として凛とたたずむ、内面の美しさにもどんどん惚れていった。社交的なタイプというわけではないが、人の話を聞くのが得意で、仕事もできる。そんな人との絶妙な距離感も相まって、彼女はバイト先で完全に高嶺の花となっていた。
 高嶺の花は他の人と同じように接客をしていても、男性客に変な絡まれ方をすることが多い。それらを軽やかに受け流す彼女を見て、美人は美人なりの苦労を積み重ねてきたのだなと思ったことを覚えている。そうは言っても、惚れている身としては想い人が変な男たちに絡まれているのは心地良いものではない。だから彼女が絡まれていたら誰よりも早く助けに行った。そうこうしているうちに彼女との距離が縮まり、二十歳の誕生日を迎えて名実共に大人になった日、絶対に届かないと思いながらも全力で伸ばした左手が、彼女の右手と繋がった。パッとしない俺の人生に舞い降りた、最初で最後の奇跡だと思った。この人だけは何があっても幸せにしようと、幸せにできる自分でいようと誓った。
 
 彼女に見合う男になろうと、必死に背中を追い続けた五年間。良い夫になって、彼女と理想の家族を作ることが俺の夢だった。何のとりえもない俺が、生涯唯一にして最大の奇跡を守り抜く方法なんて、それしか思いつかなかったから。次の人事で給料が上がったら、プロポーズしようと決意はとっくに固まっていた。だけど俺は出会ってしまったのだ。レールを外れてまで、やりたいと思えることに。そしてそのレールを外れる以上、俺にとっては勿体ないくらい素敵なこの女性を、道連れにすることはできない。
 
 彼女と別れて約半年後の八月。俺は下北沢の雑居ビルにある小さな舞台に立っていた。ここまで来るのは本当に、本当に本当に大変だった。読むのではない、和らげるのでもない、自分で空気を創り上げることがこんなに難しいのかと痛感した。だけどこれが、最愛の彼女と別れてでも、絶対に裏切りたくなかった親の期待を裏切ってでも、順調に歩いてきた社会のレールからはみ出してでも、やりたいことなんだ。
 
 大丈夫。大丈夫。目を閉じて、静かに大きく息を吸う。スポットライトが俺を照らした瞬間、全力で叫ぶ。
「目を覚ませ!!」
 
 その後は無我夢中で役を演じた。ずっと空っぽな自分が嫌いだったけれど、そんな自分を必死に隠しておどけていたけれど、演劇ではそんな自分が武器になる。空っぽな俺にしか紡げない物語があって、空っぽな俺だからどんな役にだって染まることができる。俺は今、初めて全身で生を感じている。
劇団仲間が最後のセリフを吐き、舞台が暗くなった。あぁ、やり遂げた。
 
再び舞台が明るくなると、まばらにしか埋まっていない座席に見知った顔がたくさんあった。ぽかんとした顔が並ぶなか、ハンカチで目元を抑えるひと際美しい女性がいる。来てくれたんだ。
彼女は優しい人だから、新しい挑戦をした俺の門出に涙を流してくれているのだろう。舞台の幕が下りた後、一言お礼を伝えようとお客様用の出入り口に向かう。だけど彼女はすでに道の先、遠くを歩いていて、まさに角を曲がろうとするところだった。俺は彼女の背中を、追いかけなかった。

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2024年7月に制作した全5編からなる短編小説集の第3話でした。

『何でもないふりして生きているけれど』
1.夢の向こう
2.誰かを好きになれたら
3.彼女の背中
4.私を閉じ込めていたのは
5.そして、海へと向かう

▼第2話はこちら(繋がっているストーリーなのでサクッと楽しみたい人はこちらだけでもぜひ)


▼第1話はこちら
(1話から5話まで通して読むのがおすすめです)



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