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「わたし、敬語が恐いんです。」

日本語教師の方も、そうでない方も
10年も働けば、仕事のターニングポイントになるような出来事が一度はあったはずです。

これは私が後悔していることの一つなのですが、
私はこれまで「先輩」という存在があまりいない職場で働いてきました。

日本語教師の方はよくお分かりかもしれません。
日本語学校の場合は、先に入職していた人が「先輩」として指導してくれるかどうかは学校によりけりで、新人でもほぼ「あとはご自由に~」というように教室に放り出されることもあるのです。

そのうえ私は、海外が日本語教師のキャリアスタートでしたので
それはそれは、辛酸をなめたものです。
(先輩がいない、どころの話ではない。もちろんいない。)


さて、そんな私でしたが
昨年から働き始めた職場には同じ分野の「先輩」もいるし、他の分野で働いている方もいるしで、運よく大変学びのある環境に身を置いています。

ただ、そんな中でも、私の授業を大きく変えた人は先輩や一緒に働く方々ではありませんでした。


状況から説明しますと、
ある学習者は就労のため来日し、私も彼女の授業を担当していました。
授業中は人一倍まじめ。
ほかの学習者もわからない言葉があると、彼女に聞きます。聞かれた彼女は分厚いメモ帳にびっしり書いた中から答えを探し出す、そんな光景を幾度となく目撃していました。

彼女の弱点は、シャイすぎることでした。
教師と積極的にやりとりするタイプではなく、自己流でインプットし成績を保っている様子でした。それでもそういうタイプの人もいるし、なにせ真面目な彼女ですから心配はしていませんでした。


そんな彼女が職場へ入り、すぐに問題が起きたのです。
職場の人に挨拶すらできない。わからないことがあっても聞けない。
感じが悪く、周囲から反感を買っていると会社から連絡が入ったそうです。

私はそれを聞いて驚きました。
「真面目かどうか」と「真面目に見えるか」って全然ちがうんだ、と。
言語を扱うからには、部屋でコツコツの成果が勝手に出るのを期待するだけじゃダメなんだ、と。

加えて、彼女の就労に関する担当者と彼女と通訳さんが電話で話しているのが聞こえてきたとき時のこと。

「どうして日本語を話さないの?」と聞かれた彼女。

「私、日本語を話すのが恐いんです。
日本語には、敬語があるでしょう?私はまだ敬語をうまく使えない。
敬語を間違って嫌われるのが恐いんです。」 
そう答えたのです。


この言葉に、私は雷に打たれたような衝撃を受けました。

「わたし、完全に間違えてたーーーーーー!!!!!」
とすぐに、明確に、気づかされたのです。


私が働いているところでは、職に就こうとしている学習者に対して簡易的な敬語のレッスンを行っています。
敬語を駆使するようなレベルには満たない学習者が大半なので、レッスンでは必用最低限のものしか扱わないのです。
彼女に対しても(私がそこを担当したかは正直覚えていないけれど)同様に簡易的なレッスンが行われていたはず。


そういうとき日本語教師である私はこんな風に学習者に言っていたのです。
(実際にはもっと簡単に言います)
「日本語には敬語があります。目上の人には敬語を使うように、気を付けてください。
↑↑↑↑
これが、正に彼女に恐怖を与えていたんだよね。
これ、完全にダメよね。

「気を付けて」を言うだけじゃ、学習者は気を付けない。

間違える経験」を教室ではたくさんしなければいけなかった。
ここで間違えまくって、それで恥ずかしさや恐さを乗り越えなかったら
その後学習者にそんな機会は訪れませんよね。
教室で恥ずかしい人が、社会に出て恥ずかしくならないわけがない。
元恥ずかしがりの私にはよくわかるんです。

それからは、敬語だけじゃなくて他のなんでも

「実践練習に次ぐ実践練習」を心がけて、とにかく話すことに恐さや恥ずかしさをなくそうという目標で授業を組み立てるようになりました。

学習者に「楽しい」と思ってもらえるのを目指していたころより、
「役に立つ」を目指したほうが結局は「楽しい」と思ってもらえるようです。

そうやって気づかせてもらってからは、
授業が変わり、私の目標の方向性も変わり、結果「先生に教えてもらえてよかった」「本当にためになります。ありがとう。」というようなフィードバックをもらえるようになりました。

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今年で資格取得してから12年になりました。
2011年は、本当にたくさんのことがあった年でした。
東日本大震災が起きた日、大学の卒業式を控えた私は、後に被災地となってしまった場所に行くはずでした。
ところが前日の夜、当時のバイト先から連絡があり、他の人が休んだ穴を埋めをすることになり、早く帰らなければバイトに間に合わないため東北まで行くのはやめたのです。
もし行っていたら、私はどうなっていたのか。

私は海外で働いたとき、3月11日になると震災の話を生徒たちにしていました。
たくさんの方々が犠牲になったこと。
私も被災していたかもしれないこと。
大学時代ずっと付き合っていた彼が東北出身で、震災をきっかけに鬱になってしまい、一緒にいられなくなってしまったこと。
それでもあなたたちの国が多額の募金をしてくれたことに一国民としてとても感謝していること。

自分に子供が生まれてからは、地震で亡くなった子どもたちや、家族を亡くした子どもたちのことを考えると心が痛くて涙が止まりません。
本当に本当に、少しでも傷が癒えるよう、祈ることしかできないけれど。

2011年に、日本語教師という資格を取得できて、だからこそ出会えた人、行けた場所、たくさんの思い出があります。
毎年3月11日になると、今あるすべてに感謝の気持ちを持って、亡くなった方々の分まで毎日を大切にしなくては、と思います。




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