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小説 #新しい船

2036年。

日本のある都市で、ある実験が開始された。

それは新しい学習システムの実験だった。

松山健太。彼がそのシステムを主導するリーダー兼技術者だった。

彼の胸にはずっと叔父の言葉があった。

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2018年。8月31日の夜、健太の叔父はこう言った。

「明日、どうしても学校に行くことができなかったら、ここへおいで」

そしてこうも言った。

「健太が悪いんじゃない。この世界が未発達なだけなんだ。だけど、必ず変わる。健太はそのままでいい」

そう言ってほほ笑んだ。

あれから18年。その言葉はずっと健太の胸にあった。

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旧来の義務教育に代わる新しい学習システム。

それは、タブレットさえあればどこでも勉強ができるシステムだった。

狭い教室で、毎日同じクラスメイトと過ごすことはもうない。

ひとりでも、あるいは誰とでも、自分のペースで学ぶことができた。

体育や音楽などは、ときどきみんなで集まってやることもあるけれど、それ以外は好きなときに好きな場所で授業を受けることができる。

人工知能もずいぶん発展したので、子どもたちひとりひとりに合ったペースで勉強を進めることができる。

ペースだけでなく、内容もその子の興味や特性に合わせることができた。勉強というよりも、ゲームをクリアしていくような感覚だった。

保護者がリモートワークなどで家にいるときは、子どもたちも家で授業を受けることができるし、そうじゃない場合は、近所の古い工場跡地や、図書館を教室がわりにみんな集まり、大人に見守られながら勉強することもできる。

ひとりひとりにIDカードが配られ、それにはGPSもついている。街全体で子どもの居場所や安全を管理できるようになっているので、昔のように校舎に缶詰めにされなくても、子どもの安全を護るシステムが整っていた。

(その頃の日本には、もう誰も住んでいない広い土地がいたるところにあったので、そういったところに街を作って、街全体にセキュリティをかける実験ができた。)

学習の進捗もそのIDで一元管理されているし、ゲーム感覚でその子が楽しめるようになっているので、大人たちの心配も軽減されていた。

むしろ校舎という閉鎖空間から開放され、なかば強制的な友だち付き合いや集団行動に気を使わなくてよくなった分、子どもたちはみんなゲーム感覚の教材に集中できた。

そんなふうに、2036年には、教育というものが変わり始めていた。しかしその前に、大人たちの労働環境がすでに大きく変化していた。

その頃にはもう、AIやロボットが活躍し、人間がひとつの場所に集まって、集団でこなさなければならない仕事というのはほとんどなくなっていた。

それでもみんなで力を合わせなきゃできない仕事はあったけど、1ヶ所に集まらなくてもリモートでできる場合が多かった。

しかし場所よりも、もっと本質的な違いがあった。

旧来の会社では、就職などで会社に集められた人たちが、誰か上の偉い人の指示に沿って作業をし、ひとつの大きな仕事を成し遂げるというやり方が普通だった。

しかし2036年においては、みんなで力を合わせるとき、誰かに集合させられるのではなく、この人と一緒に仕事がしたいと思う人同士が、自分から集まって、みんなで楽しく仕事をするのが普通になっていた。

それを、単に仕事と呼んでいいのかわからない。半分遊びのような、ある人にとってはライフワークのような、そんな仕事だった。

まだAIロボットに任せるには早すぎるような、創造的な仕事。それだけが人間に残された仕事だった。(だけどときどき、ロボットのメンテに駆り出されることはまだあった。)

それ以外の単純化された仕事はロボットがやってくれる。だから人間はアイデアを出したり、そのアイデアをかたちにする過程を楽しむことに集中できた。

お金や食べもの、日用品や住居も、毎日困らないだけのものが支給されるので、人間は社会全体や、自分の居場所をより快適にすることに集中できた。

(それもいろんなテクノロジーが進化して、ロボットに任せられるようになった恩恵だった。)

アイデアと言っても、世の中を良くするためのアイデアだけではない。

絵を描いたり、音楽を作ったり、美味しいレシピを考えたり、人それぞれ興味や得意なことが違う。

なのでみんな好きなことをして、その中で自分の発想をかたちにしていた。

べつに世の中の進歩に貢献しなくても、その人やその人の周りの人が幸せならそれで良い。みんながそんなふうに考えるようになりはじめていた。

お金儲けが得意な人も、そうでない人も、アイデアをたくさんひらめく人も、何もしたくない人も、みんなあるがままに生きることができる。

(しかし何もしなくていいよと言われると、逆に何かしたくなるようで、本当に何もしない人はほとんどいなかった。)

大人の社会がそんなふうに変わってきたので、子どもたちも学校に缶詰めにされたり、集団行動を教え込まれる必要がなくなった。

みんながあるがままの自分を認められ、生活の不安のない世界では、犯罪もずいぶん少なくなった。

子どもたちは気ままに、本当に友だちになりたい子とだけ友だちになった。と言うより、気づけば自然と仲良くなっていた。

友だちと遊ぶより、ひとりでいるほうが好きな子も、むりやり友だちを作らされることはなかった。

大人になっても集団で働く必要はないし、そんなことしなくても、ひとりでも何の不自由もなく生きていけるので、友だちがいないことを引け目に感じる必要もなくなった。

つまり人々は、集団や組織というしばりから、解放される道を歩み始めていた。

(しかしなぜか、人々は集団から解放されればされるほど、誰かと一緒に過ごすことをより楽しめるようになっていた。)

多様性。個性。ひとりでいること。これらを尊重するには距離が必要だった。

イガグリのような個性の子と、豆腐のような個性の子。この二人が、せまい囲いの中で、隣どうしぶつかったらどうなるか。たぶん豆腐の子はボロボロになってしまう。

だけど囲いもない、広い場所なら、豆腐の子は、イガグリの子のトゲトゲと接触しない場所まで離れることができるし、イガグリの子も、誰かを傷付けるのではと萎縮することなく、のびのびできる。

テクノロジーの進化で、自由自在に距離をとることができる世の中になっていた。

みんなで同じ時間に満員の電車に乗る必要はなくなったし、1ヶ所に集まって仕事や勉強をする必要もなくなった。今住んでいる街がいやになったら、いつでも引っ越して、前と同じような快適な住居に住むことができた。


ところで健太の作った学習システムは、子どもだけのものではなかった。大人も、いつでも学び直したり、学び続けることができた。

このように、2036年には人の行動に制限をかけるものの多くを克服できるようになっていた。

このような新しい社会づくりは、健太が主導する学習プログラムも含め、「新しい船プロジェクト」と呼ばれていた。

旧来の社会を「古い船」にたとえ、それに対して「新しい船」を作ってみんなで乗り換えよう、そういった意味を持ったプロジェクトだった。

このプロジェクトの主導者たちは、健太をはじめ、旧来の社会に何かしら生きづらさを感じてきた人たちだ。

学校にうまく馴染めなかった人。会社員という働き方に適応できなかった人。心や体の健康の問題で、社会に出るのが難しかった人……。そういった人がほとんどだった。ひとりひとりの事情を掘り下げると、もっと複雑だった。性別も年齢も様々だったが、この社会に自分はどうも不適合だ、その思いだけは共通していた。


ところで、2018年の時点で、すでに多くの人が、「古い船」はどうやらもう寿命がきていて、ちゃんと動かなくなっているらしいと気づいていた。

しかし自分たちが乗っている船を止めて、根本的なところを作り変えることはできない。学校も、会社も、どこか空回りしているとは思っても、それに乗り続けるしかない。

いつか沈むと思いながらも、だましだまし、小手先の修理を重ねるしかなかった。

実はその頃から、水面下ではすでに「新しい船プロジェクト」が始まっていた。いや、まだその当時は名前すらなかった。しかしすでに行動を起こしている人たちがいた。

そのはじまりの中に、健太の叔父もいた。


「新しい船プロジェクト」が表舞台に出たのは、2021年頃だった。

2020年の東京五輪までは、それを目標に日本の社会が回っていた。というよりも、そこへ辻褄を合わせるために回っていた。

五輪が終わったあと、人々は途方に暮れた。五輪というシンボルが大きすぎて、その向こうがまったく見えていなかった。

そんな沈んだ空気の中、浮かびあがったのが「新しい船プロジェクト」だった。

その頃には、水面下で進めていた作業もずいぶん形になっていた。

空気が一気に変わり、今まで否定的だった人たちもプロジェクトに関心を示すようになり、国や様々な企業から支援を受けられるようになった。

2018年のあのときから、健太もプロジェクトに貢献した。

叔父のもとで、簡単なHTMLをおぼえ、徐々に様々なプログラム言語も習得し、コードを書き続けた。

2021年からはあっと言う間だった。大きな波にのまれ、健太も叔父も何がなんだかわからなかった。ただ、2018年のあの夜を胸に、ひたすら走り続けた。

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2018年、8月31日の夜、健太は母の実家の、叔父の部屋にいた。

幼い頃からゲームをしたり、一緒に遊んでくれた優しい叔父。叔父もまた、様々な事情をかかえていた。

彼にだけは、つらい思いを打ち明けることができた。

「明日、学校に行きたくないんだ。」

それだけですべてわかってくれた。それ以上なにも聞かなかった。

「明日、どうしても学校に行くことができなかったら、ここへおいで。」

肩にあてられた叔父の手は、とてもあたたかく、まなざしはやさしかった。


9月1日。健太はどこにいたのか。それについて、健太の口からも、叔父の口からも、語られることはなかった。

しかしあの日から、二人は慎重に、着実に、歩いてきた。

先入観や慣習に囚われることなく、かといって大胆すぎるやり方でもなく、慎重に慎重に、健太にとって最良の道を探ってきた。

2036年。健太は生きて、笑って、ここにいる。それが、この道が正しかったことを証明している。二人は今やっと、それを実感している。


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自分も学校や社会でコミュニケーションに悩んだ人間なので、何か書こうと思ったのだけど、自分のことは上手く文章にまとまらなかったので、いつもの空想を物語にしてみました。

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