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寡作と見栄

絵を描くときに最近感じていること。

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オランダのアムステルダム国立美術館で史上最大級のフェルメール展が始まっているらしい。
フェルメールの現存する絵画は37点しかなく、そのうちの28展が展示されているそうだ。

フェルメールといえば2018年に上野の森美術館で開催されたフェルメール展を思い出す。
コロナ前だったので大勢の人が押し寄せて、殆ど人を観ていたような記憶がある。フェルメールの絵画を10点も生で観られた感動は今でも鮮明に覚えているが、企画展で最も印象的だったのは「寡作かさく」という言葉だろう。

17世紀のオランダを代表する画家、ヨハネス・フェルメール。ミステリアスな緊張感をたたえた静謐せいひつな空間、光の粒子までをも捉えた独特な質感を特徴とし、「光の魔術師」と称されることもあります。寡作かさくでも知られ、希少性も人気のひとつです。

フェルメール展ごあいさつ抜粋
企画展のパンフレットは大切にファイリングしている。

寡作というのは、創作家が作品を少ししかつくらないという意味である。
難しそうな言葉を知ってしまった私は勿論その言葉を使ってみなくなるわけで、寡作という言葉を自然と自分の描く絵に照らし合わせるようになっていたと思う。
私の絵なんてフェルメールの絵画とは比較対象にもならない程下手だし、そもそも作風も違うので私の絵が寡作だなんて、おかしな話であることは百も承知ではあるが、フェルメールの端正で透明感のある写実的な絵画は、脚色をするのが嫌いで質実剛健に創作をしたい私の感性に刺さらないはずがなかった。
パースが正確に取れた室内、そこに射し込む太陽光、本物さながらに描かれた静物と人物。フェルメールの典型的なモチーフだが、それらは小さなキャンバスの中に完璧に描かれている。世界に37点しかない希少性も相まって、フェルメールの絵画は高尚そのものだった。絵画というより宝石とかに近いイメージだろうか。

私の描く絵もこうありたいと素直に思った。企画展に足を運ぶと、著名な画家の本物の絵画を観られた感動を覚えることはよくあるが、絵画から放たれる画家そのもののオーラというか、イメージに羨望したことは初めてだった。
フェルメール展に足を運んで以降、私のなかで「寡作」という言葉に呪縛されたかのように絵を描かなくなっていって、そのことが一種のステータスに感じるようになっていた気がする。私は創作活動に対しては完璧主義なほうだから、自分が満足のいくものでないと許せない、人には見せられないという思考が少なからずあって、その完璧主義さが絵を描かないことを加速させた。
大学生になり時間にかなり余裕が生まれてからもそれが変わることはなく、振り返ってみると、去年まともに描いた絵はガーベラとベルギーの風景画の油絵、たったの2枚だ。しかも、うち1枚は制作しなければならない事情があったため半ば強制的に描いたものだ。

去年描いた2枚の油絵

このような状態で「絵を描くことが趣味」と言い張れるのだろうか。最近になって私の中で甚だ疑問になってきたのだ。


そもそもの話になるのだが、絵が「完成する」とはどの段階をもって言えるのだろうか。
私は、描きあがった絵を人に初めて見せたときに完成したと言えると思う。描きあがった段階と、その絵を人に見せるという行為の間には大きな壁がある。正直、描きあげることは容易い。だがその絵が仮に自分の中で上手いと思えなかったらボツになって、人に見せることは一生ないわけだ。
絵を描きたいと思う動機から始まり、モチーフを決め、重い腰を上げ制作に取り組んで、ようやく描きあがったかと思ったら、その絵に満足がいかなかったら?その絵は私以外の誰にも見られることなく、部屋の隅に葬られることになる。
要するに、絵を「完成」させるということには莫大な労力が必要で、同時に大きなリスクが伴うと私は常々感じている。
いや、とりあえず描けばいいじゃんと思うかもしれないが、モチーフに対してこう描きたいというイメージを膨らまして、描きあがった絵がイメージとかけ離れていたときの苛立ちは凄まじい。卓越したとは決して言えないが、少なからず世間一般よりは絵が描けるほうの私の描く絵に私自身が満足できなかったときの屈辱感。趣味程度でやっているお絵描きでさえ、幼い頃から描いてきたという自尊心が無くはない。
このような完璧主義的(?)な思考で絵を描いていると、当然ながら失敗(ボツ)を恐れる。その失敗が怖い。怖くて仕方がない。だから私は絵をたくさん描くことが出来ないのだと思う。
では寡作の創作家たちは、私と同じようにたくさん制作をしないのだろうか。それは違うはずだ。寡作とはあくまで「完成」した作品が少ないということだろう。当たり前の話だが、フェルメールも現存する37点以外にも絵は何枚も描いただろう。生まれた瞬間に真珠の耳飾りの少女を描けたはずがないし、多くの制作を重ねて画力や作風、世界観を獲得していったはずだ。これはフェルメールに限らず、他の全ての創作家にも当てはまることだと思う。

ここで今一度振り返ってみる。私は絵を描くことを習慣にしているだろうか?制作を重ねて画力を向上させようとする意識を持っているだろうか?他人の創作を遠くから批評するだけになってはいないだろうか?

ここまで長々と書いたが、一言でまとめるのなら誰しも努力なしに成長はないということだろう。何を当たり前のことをお前は言っているんだという話なのだが、こんな当たり前のことすら忘れてしまうくらい最近は私の絵に対する能力を過信していたのかもしれない。恥ずかしい話だが。
私の描く絵は寡作とは言えない。失敗を恐れて怯弱になっているだけだ。そのうえで自身の創作活動は至極高尚なものだと虚勢を張っているだけなのである。
寡作という言葉で正当化し、それを無理やりステータスのように自分に言い聞かせているだけの私の創作活動に熟語を充てるならば「見栄」といったところだろうか。とにかく、私が寡作だなんて仰山なのである。

コロナが緩和されはじめ多くの企画展に足を運び、文芸への関心が再燃している今、私自身に問いたい。見栄の創作活動をこの先も続ける気なのだろうか。


おわり
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ここまで読んでくださった方、ありがとうございました。
ESかかなきゃ。

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