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友達になれそうだった人を失ってしまった話

「旦那さんアメリカ人? へえ、じゃあお子さんはハーフなんですね」

初対面の彼女は、私の名前を聞くなりそう言った。結婚を機にカタカナの名字になってから、ここまではよくある流れ、というか初対面では100%この会話をしているので私ももう慣れたものだ。

しかし、そのあとに続いた言葉に、私は驚いて何も言えなくなった。

「いいな〜! ハーフってだけでもう“チート”じゃないですか」

なんと……びっくりした……。

普段、夫が外国人であること・子どもがハーフであることに対して何かを言われても、嫌な気分になることはあまりない(同じ会話に少しウンザリすることはあるけれど、もうしょうがないと思っている)。

でも今回は、まるで「ハーフに生まれただけで人生が楽」みたいな言い方に、驚くと同時に少しだけイラッともした。一体ハーフで生まれた人たちの何を知っているのか……。

さらに、私はなんだか勝手に傷ついた。なぜこんなにも傷ついたのか、まだ言語化はできていないのだけど、自分の子どもを「ハーフ」というカテゴリに当てはめられたのに違和感があったのかな。ふと、過去に「ハーフの子がほしい人は着物を着よう」と謳った広告を見たときのことを思い出したりして。なんて答えたのか、もう覚えていないけど、きっとうまく笑えていなかったと思う。

しかし、どうにも居心地が悪いのは、彼女に悪気がないということだ。

実はずっと、このことを書こうか迷っていた。どう表現すべきか悩んでいた。だって誰も悪気がないんだし、わざわざ言う必要もないことだ。聞かなかったことにすればいい……のか?

その人のことは、実はいまだにちょっぴり苦手だ。素敵な人だし、とても良い人だろうし(冒頭の発言だって、褒め言葉のつもりだったんだと思う)、心の底では仲良くなりたいと思っている。なのに。第一印象でピリッと傷ついた、私のどこかがまだそれを許さない。

友達になれたかもしれないのになあ。

……と、ここでハッとする。こんなふうに書いている私のほうは、これまで何人の「友達になれたかもしれない誰か」を遠ざけてきたのだろう、と。

例えば、LGBTQや障がい者などのマイノリティと呼ばれる人たち。他にも、同じ仕事や子育てをしていても取り巻く環境が違う人たち。メディア記事やSNS(主にTwitter)でさまざまな人々の声を見るたびに「えぇ!そんなふうに感じる人もいるのか!」と、自分の言動を振り返り、「ああ、まだまだ想像力が足りないな……」と日々反省している。

自分だってハーフの親じゃなければ、「チート」という強い言葉は使わなかったとしても「ハーフはいいね」くらいは褒め言葉のつもりで言っていたかもしれない。自分の見えないところでどんな苦労や想いがあるかなんて、なかなか想像できないことだ。

そんな私だから、きっとこれまでたくさんの人を傷つけてきたに違いない。知らないうちに、良かれと思って、誰かをイラッとさせたり悲しませたりしてきたんだと思う。

だから常に考え続けなければいけないよなあ、と自戒する。そして、相手を傷つけていないかを考えるためには、まずは相手のことを知らなければならない。

その知識はほとんどの場合、当事者の方々からの発信で知る。だから、小さな声でもこうやって伝え続けることで、どこかで誰かを無意識に傷つける人が減るかもしれないな、とも思う。私が自分と違う環境の人たちの受け止め方を知ることができるのも、誰かが勇気を持って発信してくれているおかげだもの。

最近、『一般的ハーフ概論』というPodcastを聴いている。ハーフの子たちが集まって何気ない日常の話をしているのに、見えている世界がやっぱり少しだけ違う。私はハーフの親だけど、自身がハーフとして生きる世界を知っているわけじゃない。でも身近にいる、大切にしたい子どもたちのためにも、その世界を少しでも知りたいと思う。

その他にもマイノリティの方々、さまざまな環境で子育てする人たち、独身だったり、年配だったり、男性だったり、同じ女性でも。知らない世界はたくさんある……というか、自分以外の誰かを本当に知ることなんてできないのかもしれないけれど。少しでも想像力を、少しでも知る努力を、と改めて。

同じ女性でも、幸運にも子どもを授かった私にはまったく想像が及んでいなかった世界を教えてくれる方もいる。こういう発信をしてくれる人がいるから、私は少しずつ「いろんな人がいるんだ」と知ることができている。

そういうわけで、この日記も「どこかの誰かがそう感じたらしい」という程度ですが、インターネットの世界の片隅においておこうと思った次第です。この小さな発信が誰かに届いて出会い方が変われば、この世にもうひとつ、友達の和ができるかもしれないのだから。

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