ヤスミ記念日
私はいつしか「休めない人間」になっていたようだ。特に産休に入ってからは、「おなかで赤ちゃんを育てているのだから」「安静にするのが仕事だから」といくら家族に言われても、休むという罪悪感が拭えなかった。
何かしなきゃ。何か意味のあること、何か生産的なこと。今日の私、何もしていない…
「胎児を育てる」というのは、文字通りで言えばこれ以上ない「生産的」なことをしているはずなのだけれど。
だから毎日やることリストを作る。なのに身体が重くて眠くて、昼寝をしてしまって、起きたら罪悪感に苛まれるという、もったいない産休の過ごし方をしていた。
そんな私が今日は産休に入ってから初めて「自分のためだけに過ごそう」と思えた日だ。「ヤスミ記念日」だ。
そう思えたのは、別に「『休んだほうがいいね』と君が言ったから」ではない。2歳児とその母に出会ったこと。
「子どもが生まれたら大変」と、たくさんの人に言われながら(脅されながら)過ごしてきた数ヶ月。イマイチ、ピンと来ていなかった。だから「今のうちに休んでおきな!」という先輩がたの助言を素直に聞けていなかったんだろう。
ところが子持ちの友人を見ていたら、本当に「大変」だと思った。たったの数時間しか一緒に過ごしていないのだけれど、素人の私には充分だった。
食事をしはじめたときには寝ていた2歳児。様子を気にしながらも友人はのんびりとランチをしていた。それは普通のお喋りで、普通のランチ。
「寝てくれてて、よかったよ」という彼女の言葉の本当の意味を、数分後、2歳児が目を覚ましたときに理解した。
ごはんを食べさせる、汚い床を触らせない、こぼし続けるお菓子を拾う、走り出すのを食い止める…
たぶん世の中の母からしたら、なんてことはないのだろう。「それが子育てだもの」と思うのでしょう。
でも私は、これから自分が失うことになるもの、まわりの言う「ゆっくり休め」の意味を理解した。
それはきっと「自分だけのために生きる」ということだ。
時間の使い方もそう、そして心の向かう先も。ああ、私のこれからの数年間はこうなるのかと今更ながらようやく実感できた。
でもこれは絶望とか恐れとかの話じゃない。「せっかくのランチなのにごめんね」と言いながら、まったく会話ができなくなった友人は、とても幸せそうだった。私もこうなるのかな、と楽しみになったもの。
今とは違う幸せの形なのだ。たくさんの人が言う「今のうちに休んでおきなよ」は、今しかないこの瞬間を楽しんで、という意味だと思った。
自分のためだけに静かに心と時間を使うという、今は当たり前の贅沢。そのメッセージをしかと受け取って、今日はチョコレートをつまみながらミステリー小説を読んでいる。今を楽しめるって最高だ。
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