見出し画像

『ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ ラジオ朗読劇『銀河鉄道の夜』舞台版』 新地町文化交流センター(観海ホール)|常磐線舞台芸術祭2023

8月1日

7時半ぐらいに起きた。バックパックにノートパソコンと1日分の着替えを入れて8時を過ぎてから家を出て渋谷に向かい、湘南新宿ラインに乗って大宮まで。
新幹線はやぶさの自由席で仙台駅に着いたのは12時前、乗り換えで少し待ってから常磐線の原ノ町行きに乗って坂元駅まで。前日に経路を調べていたのでわりとスムーズだった。平日の午前中だけど、新幹線はけっこう混んでいた。

 一冊の本を手にするということは、どうもそういうことらしい。自分のなかに何かの「種」、何かの「感覚」、おおげさにいえば何か「伝統」のようなものが、芽生えるのだ。それはそのときのものとはならないにしても、そのあとのその人のなかにひきつがれるものだから軽くはない。流されもしない。
 題は忘れたがモーパッサンが、フローベールを論じた文章も教室で読まされた。それから二〇年近くたって、モーパッサンの『脂肪の塊』に感銘をうけたとき、ぼくは思うのだ。あのとき、モーパッサンを読んでいた、と。そのていどのことだ。それでも人をやわらげるものである。帯をゆるめるときのように。
 最初にふれているのだ。そのときは気づかない。二つめあたりにふれたとき、ふれたと感じるが、実はその前に、与えられているのだ。
 読書とはいつも、そういうものである。

荒川洋治著『忘れられる過去』P17より

前日にトワイライライトで購入していた『忘れられる過去』を新幹線の中で読み始めたら、すぐにこの引用箇所の部分が出てきた。
読書はやはり一回きりのものではなく、いろんな本が読み手の中で積み重なって交差していくし、何年も前に読んだ一冊が、あるいは一節が突如浮かび上がってきて、点と点が結ばれていくことがある。それが読書という行為の豊かさだよなって思う。そして、この文庫めちゃくちゃよかったので、旅のお供にしてよかった。

常磐線に乗るのは2020年晩秋以来。車内から阿武隈大堰が見えたのでスマホで撮った。

 2020年11月28日に古川日出男さんの取材(のちに『ゼロエフ』として出版)に同行した際に、この阿武隈大堰を見にきていた。
 

常磐線新地駅で降りると宿泊の予約を取っているホテルはすぐなのだが、一駅前の坂元駅で下車した。坂元駅は宮城県にあり、ここから南下すると福島県に入るので県境近くということになる。

福島のシイタケ生産業者の家に生まれ育った著者が初めて出自を語り、18歳であとにした故郷に全身で向き合った。
生者たちに、そして死者たちに取材をするために。
中通りと浜通りを縦断した。いつしか360キロを歩き抜いた。報道からこぼれ落ちる現実を目にした。ひたすらに考えた。

古川日出男著『ゼロエフ』

 
古川さんの生家は郡山で中通りにあり、国道4号線が通っている。東日本大震災で津波被害が多く、原発事故の影響を強く受けたのが浜通りであり、国道6号線が通っている。古川さんは一人で栃木県から福島県に入って宮城県までの国道4号線を一人で徒歩で縦断し(7月23日から7月30日まで)、宮城県から福島県に入って茨城県までの国道6号線を僕とミュージシャンでもある田中くんの三人で縦断した(帰還困難区域は徒歩で歩けないのでそこは許可を取ってもらった車で入った。7月31日から8月10日)。それは2020年の東京オリンピックが開催される予定だった時期に行われた。その後、晩秋の11月27日から11月30日までを福島県と宮城県を流れる阿武隈川を中心に大きな台風被害があったが、ほとんど全国放送などでは報道されなかった場所を古川さんと僕の二人で歩いた。その一環として先ほどの阿武隈大堰を見て、そのまま川沿いを仙台湾に出るまで歩いていた。
6号線の初日に三人が常磐線に仙台駅から乗って最初に降りたのは坂元駅だった。そこから6号線沿いを歩いて宮城県から福島県に入って新地町へ向かった。晩秋の歩きでは、最終日に鳥の海を出てから旧坂元駅を目指した。そのまま宮城県から福島県に入って新地駅がゴールになって、晩秋の阿武隈川を歩く行程は終わった。
この日の目的地は新地駅だったが、僕がひと駅前で降りて歩く理由は3年前の『ゼロエフ』取材で歩いた場所をもう一度辿ること、そしてあの時にできなかったことを今回は自分一人でやってみようと思ったからだった。

Gotch – Route 6

 坂元駅から海の方に向かって歩く。目的地までは30分かからないぐらいだった。暑さはそこまでひどくなく、風も吹いていたし歩いている場所が緑が多かったので涼しく感じた。
途中で「山本町立坂元中学校」の前を通過した。僕が向かっていたのは「山元町震災遺構 中浜小学校」だった。田んぼの先に道路が見えてそこを車が走っていくのが見えた。見覚えのある道路で、「福島県道・宮城県道38号相馬亘理線」だった。そのまま38号を南下していくと「山元町震災遺構 中浜小学校」とその前にある「東日本大震災慰霊塔「千年塔」」が見えてきた。

 「山元町震災遺構 中浜小学校」には2020年11月30日にも来ていたのだが、ここは月曜日が休館日だったため、古川さんと僕は入館することが叶わず、外観だけを見るだけになった。それから「磯山聖ヨハネ教会祈りの庭」を見てから新地駅まで歩いて晩秋の歩行の旅は終わった。
今回ホテルのチェックインは15時にしていたので12時半に坂元駅に着いていれば、「山元町震災遺構 中浜小学校」の中を経由して新地駅まで歩いて約一時間半ぐらいだったので、時間的にも問題がないと計算していた。
学校のすぐそばにある受付で入館料400円を払ってから学校の中に入った。

 津波が襲ったあとをできるだけ遺構として残している建物であり、時間が経過することでより破壊された部分が錆びついたりして露わになっていた。こうやってスマホで撮影はしていたが、やっぱり言葉を失ってしまう。二階にあがるとスタッフさんというか語り部の方がいて案内や詳しい説明をしてくれた。
上の写真で柱が丸いのも元々高潮への対応として二メートル嵩上げをしたところに校舎は建てられているのだが、すべての柱はこのように丸いものとなっていて、どこも津波に破壊されていなかった。これが角ばった長方形の柱だったら津波が来た時に割れたり端っこが飛んでいた可能性が高かっただろう。ここは海に近い場所で高潮などの対応が取られて、平成元年に建てられた校舎だった。そのことが生徒たちを含めてここにいた全員が津波が襲ってきても助かる大きな要因になったとのことだった。

 二階では津波があった時点での学校とその近くにあった家の地図があった。海に近い場所には家もあったが、それは現在すべてなくなっている。津波があった時刻の時点で低学年は授業はすでに終わっていた。小学一年生でも補助輪をつけて自転車でくる子どもがいるぐらい遠くからの生徒もいたらしく、同じ集落や地域の生徒たちは上級生と下級生で集団下校することになっていた。下の子どもたちはグランドで上級生たちの5、6限が終わるのを待っていた。そのことが幸いし、津波が来る時に子どもだけで下校するという状況にならずに、登校していた生徒は全員学校にいた。
音楽室では当時の校長先生や先生が地震が起きて、津波が来るというニュースをテレビで見てどう行動したのかというインタビューと当時の海上自衛隊などが撮影した津波の映像などを見せてもらった。それを見ると屋上を案内してもらえる形になっていた。
どこかの学生の集団もいたが、僕は一人だけで映像を見て案内をしてもらった。東日本大震災の数日前にも大きな地震があったので、校長をはじめとして先生たちが地震が起きたらどう行動するかという話し合いがされていたことも生存率を上げる大きな要因になっていたという。地震発生時には僕がさきほど通ってきた中学校が避難先だったようだが、歩いてみたので肌感でわかるが10分以上はある。ましてや小学生たちが何十人といること、最初の津波警報は10分後に10メートルの津波が来るというもの(実際は1時間ちょっとだったみたい)で、みんなで中学校に向かってしまうと津波の被害に遭う可能性があったようだ。

一階の高さが4メートルだとすると二階分で8メートル、そして高潮対策で2メートル嵩上げされていたので合わせると10メートル。そうなると津波がやってくると二階の天井までになり、助からない可能性が高いためそれより上の屋上に避難するしかなかった。全員が助かったという事実があるから校長の判断のおかげで助かったと言えるが、もし、それ以上の津波が来ていたらみんな津波にさらわれてしまい、死者が出ていてもおかしくなかった。そういう話もPTAの方がちゃんと話をしていて、映像を丁寧に作っているなと思えた。
校長の判断で生徒と先生と近くの一部の住人たちは屋上に上った。子どもたちに津波を見せないようにということで実際に津波を見たのは校長や一部の先生ぐらいだったらしい。いろんな偶然も重なって全員が無事だった。翌朝、上空を通っていた自衛隊のヘリが飛ぶ音がして、屋上の見える場所に出た生徒たちが手を振って気づいてもらって救助されたのは朝の6時ぐらい、それまで食べるものもなくましてや3月の時点ではかなり寒かったようだ。学校の前はほとんど津波で流されてしまったことで、瓦礫などもなくてヘリが降りれる状況だったこともあり、人数の割には比較的早い時間でみんなが救出された、という話もあった。
屋上のみんなが避難しているところは撮影は禁止だったので撮っていないが、天井が三角の斜めの部分になっていて実際に入ってみるとかなり狭い。屋上から海の方を見るともう民家はひとつもなくて、畑が広がっている。
今回の津波で被害に遭った地域は建築制限に関する法律ができたので、前に住んでいた場所に家を新しく建てることができなくなってしまった。住宅地としては使用できないので畑であったり、他の場所ではソーラーパネルなどが置かれることになった。だから、38号から海の方に見える景色が緑が一面に広がっているのは、もう人が住めない場所だった。かつて人の営みがあった場所に人が住めなくなって、新しい堤防ができてその内側には田んぼだけが広がっている。 

「福島県道・宮城県道38号相馬亘理線」を歩いて新地駅方面に向かった。3年前にはここはまだ開通していなかった。

 古川さんと僕は津波に流された旧坂元駅を探していて、建設中の道路に入り込んでしまった。工事現場の人に確認をして車がまだ通行できないこの道路を歩いて進んだ。旧坂元駅の残骸や残っているものを見つけることができなかった。
語り部の方に道路を歩いたことを話すと一昨年開通したこと、イチゴ農園の看板があるところが旧坂元駅があった場所ですよと教えてもらった。そして、津波で流された常磐線の線路と並行する形だったらしい。僕は話を聞いている時に勘違いして、この道路は元々は常磐線があった場所に作ったのだと思っていたが、調べてみると並行していたと出てくるので、ほとんど常磐線という意味でおっしゃったのだろう。
そう考えると、やっぱり2020年の晩秋に車が通ることのなかった真新しい道路、Googleマップにも出てこなくて存在していない道を、震災までは常磐線の線路だったと言えるような道を、ほとんど常磐線だった道を僕らは歩いていた。そういうことをあとあとになって知る。今回は一人で歩いているけど、地層が重なるように僕の中の記憶と経験がさらに新しい層を作り、過去と現在の点と点が結ばれて線となった。『忘れられる過去』で読んだ「読書」と同じことが僕に起きていた。

宮城県から福島県に入り、38号を横目に田んぼの中の道を進んでいき宿泊予定のホテルグラード新地に向かった。写真の右がホテル、18時から鑑賞予定の『ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ 朗読劇『銀河鉄道の夜』舞台版』は左にある新地町文化交流センター/観海ホールで上演される。
ホテルもここしか周りにはないし、上演時間的にも一時間に一本、夕方以降に二本ぐらいの電車なので終わった後に仙台まで戻って東京はかなりしんどい。翌日の13時からの二回目の公演もあったので、僕は公演のチケットが販売される前にホテルグラード新地の部屋を予約していた。昼の回を観て帰るのがベストだし、6号線の初日に泊まったのがこのホテルだったという縁もあった。
チェックインしてから汗はさすがにかなりかいていたので、すぐにシャワーを浴びたが飲むものもないし、昼間は何も食べていなかったのでコンビニか何か探そうとホテルを出た。
新地町文化交流センターの駐車場があるほうに管啓次郎さんが通し稽古終わりでいらしたのでご挨拶して、コンビニ的な場所は近くにありませんかと聞いたら、まっすぐ進んで国道にでるところに大きなドラッグストアがあって、食品も売っていると教えてもらった。飲み物と食べ物を買ってホテルに歩いて帰ってから、開場の17時半までホテルでのんびりしていたが、寝たら絶対に起きられないと思ってなんとか寝ないようにしていた。まあ、暑い中歩いたらかなり体力消耗するから眠くなるのは自然なことなんだが、こういう時に寝過ごしたら本当に意味がなくなってしまう。

東京に帰ってから今まで僕が観た朗読劇『 銀河鉄道の夜 』を調べてみた。こういう流れというか、鑑賞してこの日に至っている。

2013年3月11日(月) 本・つながる・未来 vol.14 光のしずく流れる春の川 朗読劇『 銀河鉄道の夜 』 Rainy Day Bookstore & Cafe

  
2013年12月8日(日) 朗読劇「銀河鉄道の夜」冬の公演 福島県郡山市安積歴史博物館

 
2014年3月9日(日) 『ほんとうのうた~朗読劇「銀河鉄道の夜」を追って~』先行プレミア上映 ユーロスペース


2014年7月20日(日) 朗読劇「銀河鉄道の夜」東京特別公演 明治大学アカデミーホール(お茶の水)

  
2014年7月21日(月) 映画『ほんとうのうた〜朗読劇「銀河鉄道夜」を追って〜』 ユーロスペース


2018年1月20日(土) 朗読劇「銀河鉄道の夜」南相馬公演 福島・南相馬市民文化会館多目的ホール

 
2018年9月29日(土)&9月30日(日) 世田谷美術館パフォーマンス・シリーズ「トランス/エントランス」vol.16公演 世田谷美術館
※9月30日(日)の公演は台風のため中止

2021年3月11日14時46分 コロナ時代の銀河 朗読劇「銀河鉄道の夜」

 
2021年3月11日20時〜22時 古川日出男×柴田元幸×管啓次郎×小島ケイタニーラブ×河合宏樹「コロナ時代の銀河——朗読劇「銀河鉄道の夜」と10年」〜無観客野外朗読劇の映像公開記念〜 B&B(オンライン)

2022年3月11日14時46分「コロナ時代の銀河 」 英語/フランス語 字幕版配信

THE MILKY WAY IN THE AGE OF CORONA A PLAY OF VOICES: NIGHT ON THE MILKY WAY TRAIN

 
La Voie lactée au temps de la Covid Train de nuit dans la Voie lactée – lecture théâtralisée

 
2023年3月11日14時46分、ラジオ朗読劇「銀河鉄道の夜」三話シリーズ期間限定で無料公開スタート

 
最初に「朗読劇『銀河鉄道の夜』」を観たのは東日本大震災から2年後の2013年、この時点で小説家の古川日出男さん、詩人の管啓次郎さん、ミュージシャンの小島ケイタニーラブさんの三人で始まったものに、翻訳家の柴田元幸さんも参加されて四人になっていた。僕は三人編成は一度も観れていない。
2018年の南相馬での公演が最後の観劇となっていた。同年の世田谷美術館での公演の二日目が台風のために中止になってしまい、その回のチケットを取っていたので観れなかった。
2019年以降のコロナパンデミックでお客さんを入れての公演ではなく、地震が起きた時刻にYouTubeで『コロナ時代の銀河』を銀河チームが発表、公開しているのをリアルタイムで観ていた。
5年ぶりの「朗読劇『銀河鉄道の夜』」を観客としてライブで観るのは5年ぶりであり、メンバーも俳優の北村恵さん、ミュージシャンの後藤正文さんも加わった六人編成での公演を初めて観れる機会だった。

 2023年8月1日(火)18:00〜/8月2日(水)13:00〜 「常磐線舞台芸術祭2023」『ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ ラジオ朗読劇『銀河鉄道の夜』舞台版』 新地町文化交流センター(観海ホール)

銀河ラジオ(ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ)の人気 DJ ゴトウのもとに、ある夜ふしぎな投書が届けられた。ジョバンニという弟が行方不明なのだ、とその女性のボイスメールは訴える。はたしてジョバンニ少年はどこにいるのか? そしてジョバンニの親友・カムパネルラはどうなったのか? 純粋な子ども たちの想いを追って、銀河ラジオの報道員(レポーター)たちの冒険が始まる。「宮沢賢治さん、 賢治さん、これがラジオです。これが銀河のラジオです」

 
「ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ」開幕に古川日出男・後藤正文・小島ケイタニーラブが思い述べる(舞台写真 / コメントあり)

上演中の様子はナタリーの記事と写真で観てもらうと出演者の立ち位置がわかると思う。この日は初日で、翌日の昼の二回目も観るので舞台の正面から観ることにした。開場を待っている時に、南相馬の公演の時にお会いしていた古川さんの後輩で『ただようまなびや』などもお手伝いをされていた方と5年ぶりにお会いできたのもうれしかった。
今年の3月に『ラジオ朗読劇「銀河鉄道の夜」』として三回にわたって放送されたものがベースになっており、「朗読劇『銀河鉄道の夜』」を観ると毎回同じということはなくて、今回もラジオで放送されたものからさらにバージョンアップされていた。
古川さんが毎回脚本をブラッシュアップしていることもあり、宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』がベースであるものの時間の経過とともに変化している作品でもある。今回は冒頭で弟(古川)と姉(北村)の会話があり、セリフの中で廃線とラジオについてのものがあり、物語を始めようという呼びかけとともに始まった。
宮沢賢治著『銀河鉄道の夜』があり、それを基にした「朗読劇『銀河鉄道の夜』」があり、ゴトウ(後藤)がDJである「ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ」というラジオ放送があり、さらにのちに兄妹の兄(小島)が作中に出てくるので三兄弟がいる時間軸がある、という風にレイヤーが重なっていた。この層こそがまさに時間と空間と創造であり、物語というフィクションと現実というノンフィクション(詩人は詩人として、翻訳家は翻訳家として、ミュージシャンはミュージシャンとしても存在し、音を声を鳴らして響かせる)もミルフィーユのように重なりながらもある時には同時に存在する、というものになっていた。
古川さんは高校時代や大学時代に演劇をやっていたことももちろん影響というか、舞台をどう構成して作り上げるかということの核にはなっているはずだ。舞台芸術というものはなまの人間が演じて、観客が物語のお約束ごとしっかり守って、あるいは信じて(舞台というものは観客の信頼によって成り立っていると思う)、舞台の上で起きていることを観ていく。そうすると異なる時間軸にいるはずの役者たちが同じ舞台の上ですれ違うことも可能となる。作り手と観客の想像力の飛躍と信頼によって、虚実を現実にトレースしながらさらにイメージを重ねていくことができる。それはフィクションでありノンフィクションであり、現実における可能性のようだった。

冒頭の弟と姉、さらにのちに出てくる兄という三兄弟に関しては、『ゼロエフ』でも古川さんが兄と姉に話を聞いていることが脳裏に浮かんできた。古川さんが三兄弟の末っ子であるというという事実、それが反映されているように、見えた。単車を走らせて廃線で受信機だったはず、だからRX(Receiver)を持っていてなにか(ラジオ放送)を受信しようとしている弟、料理を作っている姉との電話での会話、のちに出てくる兄は送信機であるTX(Transmitter)を持っている。末っ子は受信する側であり、兄は送信する側である。姉はどちらも繋ぐ役割にも見えるし、どちらの要素も増加、増進させるような存在のようだった。
弟は兄と姉からなにかを受信していく、受け取っていく、あるいは継承していく、さらになにかを託されているとも考えられなくもない。そして、古川さんが、郡山で生まれ育った三兄弟の一人として、創作者としてこの脚本を書くということはそういう要素が入り込んでいると思うのが自然だろう。
古川さんはこの「銀河チーム」において座長、長であるなので、立場が弟から(長)兄となり、送信する側となる。RXとTXはもちろん、ラジオというものがあってのことだろうけど、受け手と送り手ならば観客と出演者(舞台に関わる人たち)になる。それは反転もするだろうし、この朗読劇を観た人たちが違う場所では送り手にもなることもある。
ジョバンニとカムパネルラが乗った「銀河鉄道」は生と死の境界線をずっと走っていき、最後には彼岸へ辿り着き、生者であるジョバンニはカムパネルラとずっと一緒に乗っていることはできなくなる。だけども、RXとTXが交差して入れ替われるように、生者と死者も同様であり、また離れていても繋がれる瞬間が、刹那の時間や空間だってどこかにあるはずだ。
死者も生者である僕たちと同じ場所にいるし、僕たちもやがて死者になっていく。まっすぐに線を引いてここから先はなになにで、ここからまでがなになになんてことは人間というか生命にとって利害とか利益みたいな社会的な行動の時以外には使えないし、実際にはそういうものは混ざり合っているのだと思う。そういう揺らぎのようなものの中で僕は生きて死んでいく。出会って別れていくけど、それらは全部一緒にあって、死んでいるけど生きているように誰かの心に残っていたり、別れてもどこかで存在している、みたいなことが積み重なっていくというのが大きな意味で生きるってことだし、死ぬことなんだろう。
こうやって文章を書きながら浮かんでいることは、当然ながら朗読劇を鑑賞中にはまったく考えても思ってもいなかった。ただ、六人の声と身体性と物語が僕の中に沁み込んでいった。それらを時間が経ってからできるだけ言語化しようとしている。でも、他の人からしたらまったく違う感想になったり、解釈だったりもするはずで、それでいい。

終わってから出演者の方々と少しお話をさせてもらう。外に出てから撮影をしている河合くんと今回の「常磐線舞台芸術祭2023」のサイトやパンフなど全体的なデザインを担当された形山さんがいたので入り口付近で立ち話を。
またホテルから10分ぐらい歩いてドラッグストアに食料を買いに行くのはしんどかったので、ホテルの一階のお食事処「悠」に行って、せっかく海近いしと思って炙りしめ鯖定食を頼んでビールを二杯。部屋に帰ったらすぐに寝落ちした。

 

8月2日
ホテルは朝食込みにしていたので6時半に起きて、朝食の時間が8時までだったので顔だけ洗って「悠」に行って朝食を食べた。バイキング形式はとりあえずよそっていくと何が食べたかったのかわからなくなる。
問題はこのあとだった。二日目も隣の新地町文化交流センターで13時から開演、開場は12時30分からだったが、ホテルのチェックアウトは10時までだった。常磐線はだいたい一時間に上下線ともに一本ぐらい。近くで時間を潰せそうなところは見当たらない。12時にセンターに行くとしても2時間は空く。3年前にここに来た時にみんなで行った釣師浜海水浴場に一人で歩いて行って時間を潰すことにした。
東京に比べたらまだ気温は高くないし、浜風もあればギリギリ歩けるかなという考えだった。ノートパソコンを一応持ってきていたので、荷物はそれと着替えの入っているバックアップと財布とカードケースだけが入っている小さなショルダーバッグだけだった。
前の時も夏場に歩くだけでも疲れるけど、荷物の重さが時間が経つとだんだんと効いてくる。2020年は4号線と6号線はNHKのドキュメンタリー撮影の人もいて、一部区間ではノートパソコンだけは車に置かせてもらったりしていた。それが本当に助かったが、今回は一人きり。

チェックアウト後に外に出てから駅前にロッカーないかと思ったら、なくて新地町文化交流センター付近をうろうろしていたら、ホール横に観海タウン(観光協会・UDCしんち)という所があった。そこではレンタサイクルの表示があったので建物に入って、電動自転車をお借りさせてもらった。しかも、そこには無料ロッカーもあったので、ノートパソコンが入っているバックパックも置かせてもらえることになった。これで本当に肩の荷もおりた。
新地町サイクリングマップももらって、外にあった電動自転車に乗った。ヘルメットも一応公共機関のものなんで、と言われたので文句言わずに装着して走り出した。実は今まで電動自転車に乗ったことがなかったのだけど、なるほどこれは楽ちんだ。とりあえず、海側に向かって走り出した。

 2020年7月31日に古川さんと田中くんと坂元駅から新地町のホテルまで歩いて、到着後にNHKの車両に乗せて連れていってもらった場所を今回は自転車で巡った。砂浜には多くはないけど家族連れが海水浴を楽しんでいて、前よりも浜辺がキレイになっているように感じた。

歩いたら2、30分程度かかる距離も自転車だと10分以内に着いてしまうので、そのまま海岸沿いを走る38号を自転車で南下して、海釣り公演という地図にある場所まで行くことにした。
左手から吹いてくる浜風が気持ちよく、道路を挟んで右側は津波で流されて家もほとんどなくなった場所に緑がもうもうと茂っていた。青と緑の間を灰色の道路が走っていて、自然の豊かさと生命力に圧倒される。時折自動車は通っていくが自転車に乗っているのは僕だけで、もちろん誰も歩いていなかった。
テトラポットや何メートルもある堤防というものを3年前にもいろんな場所で見たし、今回もこの海で見たけど、津波の被害を食い止めるためだというのはわかるんだけど、海と陸を隔てて区切ってしまうことはやっぱり違うんじゃないかなあ、と思ってしまう。行き来できないということは受け入れられないし、受け入れてももらえなくなってしまう。

帰りは6号線を通りたいと思ったので、海釣り公園からそれまで走っていた右側の方に進んでいくと6号線にぶつかるのがサイクリングマップを見るとわかった。
田んぼの美しい稲が揺れるのを見ながらのんびりと知らない町の知らない道を貸してもらった自転車で走っているのは、そんなに違和感はなかった。やがて6号線に出て、3年前とは真逆に新地駅方面に向かって自転車を漕いでいった。

『ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ ラジオ朗読劇『銀河鉄道の夜』舞台版』の二日目は前日に正面から全体像を観ていたこともあって、黄色いクリアファイルの譜面台がある古川さんの斜め後ろから鑑賞することにした。
古川さんの前には管啓次郎さんが、さらにその前には小島ケイタニーラブさんが、彼らの後ろ姿を見る感じであり、円筒のスピーカーの横のカメラの場所には河合くんがいて、古川さんを撮影しているというのも見える位置だった。僕の座った場所の左側の方にはゴッチ(後藤)さんのラジオステーションにもなる場所がある。古川さんと管さんと小島さんの反対の位置には柴田さんと北村さんが立つ。
初日には僕が気づいていなかっただけだろうけど、ゴッチさん以外の五人が立っている場所は線路のように立ち上がっていた。最初に古川さんと北村さんの弟と姉がゴッチさんが立つことになる場所にいてそこから左右に分かれる、その時に列車の出発音のような起動音が鳴っていたが、その時にここの部分が動き出して高くなっていった。その後に他の出演者が出てきて定位置に向かっていくという流れだった。正面の座席で観ていた時に最初は暗闇なのでそこが立ち上がっているとまったく気づかないで初日は観ていたということに翌日、後ろ側から観てわかった。線路のようにと書いたけど、そう思うだけでもよりこの朗読劇が深い部分で演出されているのもわかる。それに気づかないままだった可能性もあった。
一日目は古川さん達もお客さんの前で今回のバージョンの『ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ ラジオ朗読劇『銀河鉄道の夜』舞台版』をやるのは初めてだったし、観客も初めて観るという状況だった。当然ながらそういう場合はどちらもやっぱり緊張はする。また、観客はリアルタイムで物語がどうなっているのかをセリフや状況で判断していくので、その処理と目の前で起きていることを結びながら、ということになる。
昨日について書いているのは家に帰ってから四日になって、時間が経ってから書いているし、この日も同様で、時間が経たないと自分の中を通過した物語や声たちがどんな色や匂いや重いとか軽いとか、を判断というか理解ができなかった。今書くことでそれらが一気に蘇ってきている。
二日目は物語の筋や流れはある程度把握できていることもあって、そちらに理解や気持ちを意識的により向けなくてもいいので、フラットな気持ちで朗読劇を受け取ることができたのではないかと思う。また、古川さんの近くで観たことでよりエモーションを感じられた。近くで実際に観るからこそわかる動きや表情の変化というのはとんでもない情報量になって、僕の中に入り込んできていた。

紅一点であり、出演者の中で唯一の女性でもある北村恵さんはこれまでにも古川さんの演出舞台や朗読劇などにも出演している俳優さん。彼女は古川さんよりも年齢は下だけど、なんというかどこか姉のような存在として、古川さんを見守ってきた女性たちがひとつの存在となって舞台にいる、という印象を受けることがこれまでに何度かあった。もちろん二人の波長とかがあう、信頼感があるからこそ、同じ舞台に立っているんだと思う。北村さんの声はやわらかいんだけど、ふっと入ってくる(抜ける)強さもあるし、真夏のサイダーのように甘すぎない爽やかさ。

翻訳家である柴田元幸さんは四人目としてこの「朗読劇」に参加されていて、作中で話される英語が物語の奥行きというか世界観を広げていると思っている。また、柴田さん自身の言い回しのファニーさというか、語尾に「よござんす」みたいな時にもうれしくなるというか微笑んでいる自分がいる。トワイライライトの熊谷くんが柴田さんを全国に連れて朗読イベントもたくさん開催していて、柴田さんはそれだけでなく、ご自身が翻訳された作品の刊行の際にも朗読イベントをされていることもあって、朗読がとんでもないレベル、朗読者にもなっているなといつも思う。世界中でもあんなにすごい朗読できる翻訳家はたぶん、というかきっといない。

ASIAN KUNG-FU GENERATIONのフロントマンであり、Gotchとしてもソロ活動もしている後藤正文さんは震災後の福島だけでなく、東北でのイベントなどにも出演されていて、他にも様々な活動をされているし、自分の思っている(考えいている)意見を言葉にできるミュージシャン。どちらもファンだった後藤さんと古川さんが一緒に朗読劇やコラボレーションをする機会を観れていなかったの今回観れたのも嬉しかった。「ザ・レディオ・ミルキー・ウェイ」のDJゴトウとして話す声はいつもその場所にいる人たちを、その地域で起きていることを自分の目で見て、人に話を聞いてから考えたいという彼の姿勢と思いやりの気持ち(眼差し)が感じられるものだった。ギターで鳴らす環境音というかそのシーンに必要な音も心地よかった。

小島ケイタニーラブさんは初期から三人で始まった時からのメンバーで、その時点でも一番若く、この朗読劇における音楽をメインで担っている。他のメンバーからすれば若いはずの小島さんの声がしっかりと伝わってくる、老成しているとは違うような、落ち着いて物事を客観的に見ながらも動ける人のような視線や意志のようなものがそこに孕まれている。最後に朗読劇を締める役割でもある曲『フォークダンス』は彼がメインで歌っているが、二日目の方が自分でもなぜだかわからないけど、深く深いところに届いて揺れて、視界が潤んで、その後ろ姿がぼやけていた。

詩人であり、古川さんに声をかけて「朗読劇」が始まるきっかけを作った管啓次郎さんの声は、カムパネルラとして出される時に一緒に銀河鉄道に乗車したジョバンニを導き(あるいは保護し)、自分の運命を受けれながらも友人のジョバンニと一緒にいる時間を愛おしく感じているように聞こえる。管さんが後半に詠む詩とカムパネルラであることがこの「朗読劇」への観客の没入力をさらに高めていると感じるし、物語が立体的になっていると思う。ちゃんと重さがあって軽やかで、生きている声と詩。それはやっぱりポエジーであり、生命のきらめきだと思う。

脚本を書き、自らもジョバンニとして出演している古川日出男さんは、今作の中心であり、核である。だが、みんなが古川をただ盛り上げているのではなく、古川さんはそのシーンごとに中心となる人がその瞬間にしっかりと生きていること、呼吸して声を出すことを軸にして脚本を作っている。それによって各出演者の演じる人物達の輪郭がはっきりとしてくるから物語が出演者にとっても観客にとっても受動的なものではなく、能動的なものとして生きた物語になってくる。そうするとみんながその物語を生きて、古川さんの演じるジョバンニのシーンもより切実で魅力に溢れたものとなっていく。
「朗読劇」だけではなく、自作である小説の朗読なども何度も観てきているけど、毎回想像の先に、見たことのない場所に連れていってくれる。それを作り上げるのは困難であり非常に大変だと思うが、それをいつも古川さんが越えてくるから一緒に作品を作っている人たちもその先に共に進もうとするし、スタッフの人たちも集結(尽力)して、チームとしての結束力と信頼が年々増していっている、そのことが「朗読劇『銀河鉄道の夜』」がどんどん前へ進めている原動力なんだと思う。いつも古川さんの朗読や今回のような「朗読劇」を観た後はうまく言葉が言えなくて、「よかったです」としか言えないのが申し訳ないのだけど、その時に言葉にできなかった想いがこうやって文章になっている。

初日はすごいものを観て、どう言葉にしたらいいのかわからなかった。二日目のほうがゆっくりゆっくりと寄せては返す波のように、僕の感情が「朗読劇」によってどんどん鼓舞されていくのを感じた。最後の『フォークダンス』でのみんなの声が重なっていく、その声とリズム、そして、その場に自分が居れることにただただ感動していた。

小島ケイタニーラブ – フォークダンス

 上演が終わった後に出演者の皆さんとお話もできた。電車の時刻が近づいてきたので、古川さんたちに挨拶をして駅に向かった。そして、仙台行きと原ノ町行きが両方来て、原ノ町方面に乗ろうとしていたことに気づいて、反対側に走ったが電車は出ていってしまい、会場に戻るのはちょっと恥ずかしいので40分ちょっと後の次の電車をホームで待っていた。
次の電車の時刻が近づいてきたら、北村さんたちや照明などをされていたスタッフさんがに仙台方面に向けて帰ろうとホームにやってきた。仙台に戻ってから新幹線で東京とかに帰るしかないので、みんな同じ方面になる。
1番線も2番線もどちらも「仙台・原ノ町方面」と表示されていて、次に来る電車がどちらも同じ時間だったので、みんなどっちなんだよとちょっと前の僕のようにプチパニクっていたが、仙台方面の電車が1番線に入ってきたので、みんなそれに乗った。常磐線に乗って約一時間、窓の外を流れる景色を見ていた。電車が停まって仙台駅に近づくたびに乗車する人は増えていった。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?