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「才能」とは。「努力」を「努力と感じない能力」である。

こんにちは(^^♪

ナビたろうです、アクセス頂きありがとうございます。心より御礼申し上げます。このマガジンでは、日々の気づきや考えなどをとりとめもなく、まとめていきます。文章の乱れなどはご了承くださいませ。

さて、本日は「才能」について。最近、考えていること、感じていることをまとめておきます。

「才能」とは。

子どもからも大人からも「才能」というキーワードを聞くことは多くあります。あの人は才能がある、自分は才能がない、といった言葉は、よく聞きます。そもそも自分に才能があると自信を持って言える人などごくわずかでしょうが、それでもやはり「才能」には憧れを持ってしまうのが人間です。

では、才能とは、なんでしょうか。最初から結論になってしまいますが、私は才能は「普通の人ならば努力と感じることを、努力を感じない能力」だと思っています。例えば、サッカーの才能がある人は、普通の人は「練習」だと感じていることを、練習だとは感じずに、できてしまいます。それはスポーツだけではなく、勉強やその他の分野でも同じです。一般の人が「努力」しなければいけないことを、「努力」と感じずにできてしまうのです。それこそが、才能だと私は思っています。

才能とは

「才能」の源泉。

次に疑問に感じるのは、ではそのような「才能」はどこからやってくるのでしょうか。自然発生的に、生まれ持ったものとしてやってくるのでしょうか。私は「才能」はもちろん生まれ持ったものや幼少期の環境も大きく影響していると思いますが、それだけでもないなと感じています。

努力を努力と感じずにできるのは、それに対して「関心」「こだわり」「興味」があるからだと一般的には考えられていますよね。しかし、私はそれだけではないと思います。つまり、才能の背景には「違和感」みたいなものがあるんじゃないかなと感じます。

例えば、魚の研究に関心があるということは、自分の考え(アイデア)と現実(観察事実など)にギャップがあるからではないでしょうか。そのような「違和感」(自己と現実とのギャップ)のようなものが、才能の本質ではないかと感じるのです。

「現実」や「社会」への違和感。

そのように考えると、現実や社会に対して「違和感」を感じることは非常に大切だなと感じます。なぜなら、それこそが「才能の源泉」だからです。現実や社会に何も違和感も感じずに生きていることは、逆にいえば何の才能も持たずに、生きていることなのかもしれないなと感じます。

本日は才能について、思うところをまとめてみました。

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