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GAME CLEAR (OVER)

小さい時から「脚が長くてスタイルが良いね」と言われ続けた。
だから、モデルになれると思っていた。
思い切って、本当に勇気を振り絞って
「お母さん、モデルやってみたい」と言った。
あれは浦和駅西口の、伊勢丹を右にして線路際を歩いていたときだった。
浦和に住んでいたときだから、小学生の頃だと思う。

相当勇気を振り絞って言ったことだから、24歳の今でも忘れられない。
母は、
モデルで1番になるよりも勉強で1番になる方が楽なんだから勉強に力を入れなさい。受験が終わって、それでもなりたかったら考えてみたら良い。」と言った。
当時は自分を無理やり納得させたが、モデルだろうと勉強だろうと、1番になるのはどっちもハードだろ、ということだ。
そんな受験期に、私の同級生がオーディションを受けて合格した、
エステー 2万人の鼓動 | TOURSミュージカル「赤毛のアン」
を観させられた。その時に思った感情や観た景色はやけに生々しく覚えている。確か南浦和のさいたま市文化センターの大ホールだった。私はやや下手気味の座席で、彼女の演技を観た。
それ以来、私はショービジネス界への歪んだ憧れを持ち続けている。

実際、冷静になってみるとモデルやら女優やらといった職業を応援するほど母は肝が座ってなかったんだろうし、そういった業界はあまりにリスキーすぎる。極端な話、私がそういった世界に向いているのであればスカウトの声がかかっていてもおかしくないのだ。

だから、芸能界への夢は「非現実的な夢」。
そう思って無理やり蓋をすることもできた。

現実的な夢は、「コピーライター」だった。
私は多分コピーライターになりたかった。広告系クリエイティブに就職したかった。
広告業界へ身を投じて、ブラックでもいいからそういう世界にいたかった。
自殺に追い込められてもいいから。芸術と何かつながっている世界にいたかった。みんなで会議をしながら、頭を使ってCMないしプロダクトを作り上げたかった。

結論から言うと、私は広告代理店の内定を得ることはできなかった。
そのかわりに得たのは、誰もが知る超有名企業からの内定だった。
その企業はどこかアートチックなこともしているし、給与も相当いい方だし、9時半始業・18時退社がほぼ確実だった。(実際今でもそのスケジュールである。)
父親が実質居ない私は、就活浪人をする選択肢を持たなかった。
その超有名企業に就職し、4月末の転勤命令で今は仙台に居る。

芸術とつながっていたかった。
仙台、宮城県にはびっくりするほど展覧会が来ない。
この夏の展覧会の数だけで言っても、
東京都が131件ある一方で、宮城県では5件しか無い。
宣伝会議で広告の勉強をし直そうと思っても、仙台にはサテライトすら開催がない。宣伝会議が全てではないが、宣伝会議で勉強がしたかった。
日本は芸術が東京に集中しすぎている。
何もかもが、東京に集中しすぎている。

高学歴・超有名企業への就職
を叶えた私だが、なりたいものには何一つなれなかった。
今いる会社の文系採用の倍率は70〜100倍らしい。(レンジ広すぎだろ)
そんな「高倍率を勝ち抜いた」という事実でだいぶゲームクリアなのだ。
ゲームをクリアしてしまった私の目の前に広がる社会というものがあまりにも虚無感に満ちあふれている。

仮に今から広告業界に転職できたとしても、おそらく私の採用は営業職だろう。今の職種が営業なのだから。超有名企業の営業さん(笑)なのだから。

仮仮に、広告代理店のクリエイティブに就職できたとしても、正社員になれるかどうかはわからない。今の待遇より良い、いわゆる「キャリアアップ」にはほぼならないだろう。
「なりたかったものになれる!だからそんなの気にしない!」
と思えるほど私は楽天的にはなれない。

勇気の持てない私の自業自得なのだろうか。
どうしてなりたいものになれないのだろうか。なれなかったのだろうか。
ゲームクリアしてしまった私はどうしたら良いのだろうか。
モデルになりたかった。
女優になりたかった。
広告代理店の女に、なりたかった。

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