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最愛の母を亡くし、10年経って思うこと

今日は、朝から曇り空。そんな日は、難しいことを書くより、心の柔らかい部分を抱きしめるような文が書きたくなった。それは、10年前に亡くなった最愛の母のことだ。


私の母は、大きな名家の末っ子だった。しかし、不幸なことに、母が生まれる前に父親が病死した。一家の大黒柱亡き後、実家は没落したため、母は名家の生まれということを実感できぬまま成長した。

よく母が、クラスメートに、「私のおばあちゃんは貴方の家の奉公人だったのよ。」と言われるのがとても嫌だった。と、昔話をすると、よく没落した名家生まれが故の苦労を話してくれた。

母には、父親(祖父)の記憶はなく、その片親の不在を埋めようとしてか、母とその母親(私の祖母)の絆はとても強かったようだ。母親(祖母)も、まだお腹の中にいるうちに父親(祖父)を亡くした母の事を、不憫に思い、とにかく、大切にかわいがったということだった。

ここから便宜上、母の両親を、祖父と祖母とします。

祖母は、出雲大社にゆかりのある、やはり名家出身の生粋のお嬢様だったらしい。そんな祖母が、急の病で夫を亡くし、乳飲み子を抱えて一家の長となり、子供を育て上げるのは、大変なことだったと想像できる。

祖母の苦労を身近で見てきた母は、とにかく祖母に迷惑をかけないようにと、小さいときから祖母の言いつけをまもり、わがままも言わなかったと言っていた。家が貧しいとわかっていたので、学校の卒業アルバムも注文しなかった。と話してくれたことがある。

その一方で、母が祖母に買ってもらったという着物や、バーバリーのコートや、大きなエメラルドの指輪などを見ると、没落したとはいえ、やはり名家だったので、暮らし向きは、当時の母が思っているほど苦しくなかったのではと、私はひそかに思っている。

しかし、母にとっては、昔はお庭の池にボートを浮かべられるほどの家だったのに、今は、お庭が小さくなって、私のお母さんは苦労してかわいそう。と、冷静な分析を突っぱねるほど、母の祖母への愛は崇拝に近かったと思う。

そんな母は、最愛の母親(祖母)を、私を妊娠しているときに病気で亡くした。母はお酒に酔うと、よく私に泣きながらその時のことを話してくれた。

「大好きな母親を亡くして、悲しくて一緒に死んでしまいたかった。そんな悲しみのどん底にいても、妊婦だからお腹が空いて、お腹が鳴るのよ。それで、おにぎりを無性にほおばった時、悔しくて苦しかった。母親が亡くなっても、次の日には太陽が昇り、また一日が始まることが信じられなかった。」と、いつもは凛としている母が、涙が流れるままに小さくなっているのだ。そんな時、私は、いつも母をどうやってなぐさめていいのか、途方に暮れたことを覚えている。

当時、私はまだ中学生くらいだったと思う。私の最愛の母を悲しませる、会った事もない祖母を好きになれなかったし、そんなに母に愛されている祖母に嫉妬もした。それほど、母の祖母を亡くした悲しみは深かったのだ。

そして、それから時がたち、私の母が癌になった。長い闘病生活の間に、私は一人の子供の母となった。

初めての妊娠で、しかも家族もいないアメリカでの妊婦生活は、不安もあったが、なにより闘病している母のことが心配で、自分より母のことが気がかりだった。

私も母と同じように、最愛の母に子供を見せることなく、母が旅立ってしまうのではと、不安で仕方がなかった。

だから、子供が無事に生まれ、母が命をかけてアメリカに、私と孫に会いに来てくれた時、本当にうれしかった。そして、やっとカルマの鎖が一つ切れた、このまま母に奇跡がおこるのではと、希望を感じた。

しかし、癌は母の手を放してくれなかった。

私の子供が2歳になる前に、母は旅立っていった。

母の葬式の日。私は、喪服を着て子供を抱きかかえたまま、母の棺の前で列席者にお辞儀をした。生前の母の希望で、多くの方にはお知らせせず、家族葬のつもりで小さな会場を選んだのだが、母の死を一緒に悼んでくれる方で葬儀場はすぐに一杯になり、最後は会場のドアを開放してたくさんの椅子を並べた。

通夜、葬式、49日、納骨と、次々と母を弔う儀式は進んでいくのに、私は、まったく泣けなかった。幼いわが子の面倒を見なくてはいけないから、悲しみにしたる余裕がなかったからなのか、最愛の伴侶を亡くした父の悲しみを見て、このまま父もいなくなってしまうのではと心配になったからなのか、わからない。まったく実感がなかった。

ただ、母が言っていたように、世界が何事もなかったように日常を重ねていく事実に、勝手に裏切られた気持ちになった。そして、その悲しみにつける言葉も見つからなかった。だから、悲しみに蓋をした。

あれから、10年。やっと最近、母が普通に夢に出てくるようになった。以前は、母の気配を感じるのに母に会えなかったり、母はいるけど母が背中を向けていたりと、なかなか面と向かって会うことはかなわなかったのに、今は夢の登場人物の一人として、しっかり姿を現してくれるようになった。

それと同時に、母の記憶が薄れている。

母がどんなことを言ったのかとか、母の好物はどんなものだったとか、そういう話をしようとすると、遠くに住む昔の知り合いの話をしているような、そんなもどかしさがあるのだ。

昔は、一卵性親子と言われたほど大好きだった母のことなのに、母との記憶が薄れていることが、とても悲しい。

悲しいけれど、これも正常な時の流れなのかとも思う。

日々の中で、母がいたらと思うことはたくさんあるが、そのたびに悲しんでいられない。だから、きっと今はこれでいいのだと思う。

ただ、時々、母のことを思い出して、母を早くに亡くした自分をかわいそうにと、涙を流したくなることがある。涙を流して、それでまた、自分も大切なわが子の母親にもどるのだ。

最愛の母を亡くした悲しみは、本当に深い。そして、悲しみの深さは、決して人と比べるものではないと思う。だから、ゆっくりと自分のペースで時間をかけて、時が癒してくれるのを待つしかない。

母の記憶は薄れたが、母が私を愛してくれたこと、そして私が母を愛したことは、決して色あせない。私の母との愛は、私の存在の隅々にまで溶けて、私の今と未来を支えてくれているのだと思う。



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