幸福が、こわいという
10年ほど前から特に...何をしても、したりないような。
何をすれば、足りていくのやらも分からなくて、全体的にウツウツと、そしてそれを隠すように私はそこそこに生きていました。
「こんなおもろい人は他にいないよ」などと、親友は四方八方から褒めちぎってくれる人だったけど、私はその声を受け取ることがちっともできませんでした。頭を下げられたって無理でした。
受け取れない、その事実がさらに受け取れなくて、そこにもイライラしていました。
やりたいことが分からない私に送ってくれる「好きなことしようよ」「できるよ」の言葉は、無価値さという傷口へ擦り込まれるキムチのようなもので、痛くて痛くて、「それが分かれば悩んだりしない…」「好きなことやってるあんたに何がわかんるんだ」と怒ったり泣いたりしていました。
「私、今幸せになっても幸せを感じられないと思う」
こんなことも言ってたそうです。衝撃だったと、教えてくれました。
これは…「外側の幸せ条件が仮に揃ったとしても、私は幸せを感じることはできないでしょう….」という幸せ拒絶宣言だったんだと思います。
私は私に、こんな諦め感満載な言葉を与えていたんですね。私も衝撃です。。
これを聞いて、太宰治の『人間失格』の言葉が浮かびました。
綿で怪我って、すごい表現ですが、分かるなぁ分かるなぁと読んだんです。
裏切られ、傷つくと、今度は幸せってのが怖いものになってしまう。
実は、不幸の方が安心してしまう、という感覚。
私の中にもずっとあったことを受け取ることができた言葉です。
痛い痛いがいくつもあったけれど、キムチだろうと綿だろうと…傷つけてくるものは本当はなんにもなかったってことを、その痛みを感じること含めて知りたかったんだと、今は合点合点合点。
親友は、近ごろの私の変容ぶりに驚きを隠せないようで、劇的ビフォーアフターを飲み仲間に言いふらしていると聞きました。
これはなんだかちょっと、嬉しい。
過去を知ってくれてるからこそ、涙まで流してくれました笑
(いや、笑うなよって思うかもですが、笑えるとこまできたのがワーイ)
痛みで愛に戻れる、こんな話しも受け取ってくれた親友の存在がありがたいですし、根気よく存在愛を伝え続けてくれてたことに、ありがとうでいっぱいになりました。
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