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分かり合えない躁鬱人⑭


こんばんは。まなみんです。

今回は、分かり合えない躁鬱人シリーズ第14弾!

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今回のテキストはこちらの前半部分↓↓↓


「普通、中高時代より好調と不調の時期があったはずです」

 確かにそうです。僕自身、どうにもならなくなって、わけがわからなくなって、それこそ死にたくなって、心療内科に行くしかないと感じ、受診し、躁鬱病と診断を受けたのは2009年ですから、30歳のときです。
しかし、それ以前から好調、不調の時期はありました。
気分の波が激しかったのは小学生の頃からです。
それでも高校生の時までは特に学校を休むことも、家に閉じこもったりすることもありませんでした。
躁状態が飛び出して、ちょっと羽目をはずすことはありましたが、でもまだ可愛いものでした。

私は今考えると、中学生のときに軽いうつ状態だったのかなと思います。

なんとなく全てにもやがかかっていて灰色な世界だったと感じています。

逆に、高校生のときは躁に近かったかもしれません。

すごく明るくて、まるで人が変わったようで。

意味不明なことも叫んでいたような。

そんな私に付き合ってくれた、友人たちには感謝しかないです。


だから気になるのは、中高時代から好調と不調の時期があったにもかかわらず「なぜその時は、破綻しなかったのか」ということです。
実は波自体は大して変化がないのではないかと僕は感じてます。
小さい時から、いろんなことに興味を持ったり、人とワイワイ騒ごうとしたりする一方、一人でちょっと塞ぎ込むような気持ちになったり、寂しくなったり、みんなが笑っている横で、突然悲しい気持ちになったりすることはありました。
鬱の時は、そういう経験も全て、悲しい記憶として思い出されます。
躁鬱人は不思議な記憶の持ち方をしています。
前にも言いましたが、時間の感覚が非躁鬱人とは違います。

すっごく分かる!

だから、「なぜその時は、破綻しなかったのか」とても気になります。


どのように記憶しているかというということを少し話してみましょう。
もちろん、記憶の量は非躁鬱人たちと同じくらいだと思います。
躁鬱人はある人からは記憶力が極端にいい、しかし別の人からは記憶力がない、とどちらも言われます。
これがどうして起きるかというと、躁状態と鬱状態は二極に完全に分かれているわけではなく、ピアノの高い音が出る鍵盤から低い音が出る鍵盤まで並んでいるようにグラデーションになっているのですが、例えば、一番高い音(つまりこれは躁状態マックスの時です)の時と、一番低い音(これが鬱状態マックスの死ぬ寸前ですね)の時とでは、記憶の総量は違わないのに、それぞれの記憶に対する重要度の度合いが全く変わってしまうからです。

「躁鬱人はある人からは記憶力が極端にいい、しかし別の人からは記憶力がない、とどちらも言われます。」

そうなんですよね。自分でもそう思います。

なぜなのか、続きを読んでみましょう。


人付き合いについての記憶を例にとると、躁状態マックスの時は、たくさんの人たちが集まってワイワイ楽しく過ごした日々や一人の人ととんでもなく親しくなってただ直感で話しているような対話ができていたことなどを思い出し、鬱状態マックスの時は、誰にも会いたくなくて部屋にずっとこもっているとき、もしくは人から文句を言われ傷ついたこと、などをしかも辛いことにやたらと鮮明に思い出します。
もちろん躁状態マックスの時も、一人で悲しんでいた記憶がないわけではありません。
必死に思い出そうとすれば思い出すことはできます。
つまり、記憶自体は残ってます。しかし、その元気すぎる時に、一人で悲しんでいた記憶は重要度が全くないと判断されて、もうほとんど透明のゴーストになりかけてます。
逆もまた然りで、死にそうな時には、たくさんの人前で堂々と話していた自分の姿は重要度がないと判断され、もうほとんど足が消え始めているのです。
バックトゥザ・フューチャーの未来に少しバグが入ったことがきっかけで、写真に写っている過去のドクが透明になっていくシーンがあるじゃないですか、あんな感じに記憶がすぐに気分の波によって変化するんです。
しかもそれが躁と鬱の二極化されているわけではなく、ピアノ鍵盤のようにずらっとグラデーションになっているのです。

お、この具体例いいな。分かりやすい。

本当に、こんな感じなんですよね。

というか、皆さんはこうじゃないのですか?

これが当たり前だと思っていました。


そのため、気分の波は常に変動してますから、記憶の重要度マークもその都度変動します。
つまり、その気分の波の時に経験したことだけを、次に同じ気分の波の時に思い出す、ということです。
ということは、やはりこれが寄せては返すが、同じような波ではあるということです。
海の干潮と似ています。もちろん、それぞれの波が同じなわけではありません。海の波と同じように、波自体は変わってはいるが、そのリズムのようなものは繰り返してます。
そして、それぞれの波に合わせて、その時に体感した記憶が、変貌していくのです。

とても分かりやすく説明されててスッキリです。

私はこうなんですけれど、皆さんは違うのですか…?


だからこそ「とても記憶力はいいが、とても忘れっぽい」という非躁鬱人にはわけがわからない記憶力の持ち主になってしまうわけです。
ある波における記憶に関してはそれがずいぶん昔のことだろうと鮮明に思い出せます。
しかし、過ぎ去った別の波に関しては昨日のことだろうと忘れてしまうのです。
そして躁鬱人は出来事自体よりもその時に感じた感覚の方が重視されてます。
これはこれまでにも話してきましたね。われわれ躁鬱人はただひたすら感覚で生きているわけです。

私は感覚で生きているのか……。

20歳になってやっと知るというね。


われわれの言語がまさに感覚なのですから。
それは感情とも呼ばれますが、躁鬱人にとって感情という言葉はあんまり当てはまらないのではないでしょうか。
例えば、あることがあったとして悲しいと感じても、悲しいかな躁鬱人は別の波になれば、一切悲しくなりません。
よく言えば、切り替えが早いということですが、感情によって生きる非躁鬱人から見ると、この人に感情ってものがあるのだろうかと怪訝な目を向けられることもあるかもしれません。
もちろん躁鬱人は情で動くところもありますが、それは何度も言うように、みんなから褒められたいというほとんど条件反射と化した感覚が実は作用しています。
だからこそ、たとえ情的に大事なことであろうとも、自分が飽きたら、つまりそのことに感覚が動かなくなれば、すっかりやる気を失ってしまいます。しかし、この世は情け、と言うように、やたらと社会は情を重要視します。

ここに躁鬱人の生きづらさが隠れていますね。

私も今になってやっと気づけたのですから。私は躁鬱人だと。


と言うわけで、躁鬱人も情で動いているんだと勘違いし、自分の条件反射だけの感覚野郎だと言う性質をないがしろにしがちです。
結果的にやりたくもないことをやり続ける羽目になり、まあ、すぐに鬱に移行していきます。
そういう意味でも、あなたが感情ではなく、感覚で動く、つまり、その場でも好き、嫌い、心地がいいか、窮屈かってことだけで動く体質の人間なんだよ、と体全身で必死に伝えているのが鬱ということなのかもしれません。
つまり、鬱とは「躁鬱人のお前さんが非躁鬱人になろうとするなよ」という体からの警告でもあるのです。

そうかもしれませんね。

遺伝子レベルで、躁鬱人と非躁鬱人の違いが身体に刻み込まれている気がします。

躁鬱人としてのプライドが高くて、すぐ鬱にして警告されちゃっているのかもしれません。



私は双極性障害を研究したいと考えています。



だからたくさんの躁鬱人と繋がりたい。
そして、サークルを立ち上げました。



今現在、加入者が7人です。少しづつ人数が増えています。ありがとうございます。

しかし、さらにたくさんの人と気軽にお話ししたい。

サークルでは今のところ、お悩み相談室のような感じになっています。

辛い気持ちとかをシェアして、それに対して温かいアドバイスが届く。

本当に温かい方たちが集まっていて、いつもほんわかとした空気があるように思っています。いつもありがとうございます。


質問などあればコメント下さい。

サークルでやりたいことも募集中です。

よろしくお願いいたします。


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